細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

人間が野性動物の圏域をおびやかさないことがパンデミック防止に大切ではないかという1つの視点

(3日くらい前に書きました)
精神的疲労がピークだった。

インターネットを休んだら体調が少し良くなった。
そして、少しだけ活字も読むのが辛くなくなった。しかし、好調というにはまだまだだ。そもそも人生で好調が数えるほどしかないのが問題だが。

昔はSNSで孤独を埋めていたのだが、ここ何年もはむしろ苦悩の種を拾って悩むパターンになっていた。

というか日々疲れてストレスとなり、勝手に自信がなくなっていっていた。

 

日本の社会だけでなく世界も大変で、私は心身が打たれ弱いときている。
SNSをやって、自分にもわずかな力を感じたが、頑なさキャパシティのなさも自覚した。
もう自分を追い詰めたり、自分の無力、ダメさを放置して、カッコつけてもしかたないのに。

原発事故やコロナで、危険や困難に向き合う人と、見て見ぬふりする人の溝は深まるばかりだ。

しかし、それは日本の危機、地球の危機の中で必然的にあらわれてきたものであろう。

私が小学生や中学生のとき、ナウシカチェルノブイリで感じた地球大の危機はそれだったのである。

新型コロナウイルスが示しているものは、気候変動と同じである。

人間自身が環境を破壊したことで、地球が人間を含む生命の住めない圏域になる恐れがあるのだ。

新型コロナウイルスについては、様々な原因説が流れたが、私が示唆を受けた原因説として、人間が経済開発による森林伐採や大規模家畜や珍しい動物を食べたりペットにするために、野生動物の生息域を荒らして、野生動物の下で大人しく暮らしていたコロナウイルスが人間に触れ、新型に変異し、感染力と強毒性を獲得したのだという。

長い時間をかけて、コウモリのような生き物とウィルスは、関係を築いたのであり、人間が簡単にそんな反応系を獲得できないと思うので、私たちは命を守る対策をしながら、自然を「脅かさない距離関係」を築くべきだと思った。

私がコロナとの「(対策なしの)共生、共存」という言葉にためらい、違和感を感じる理由である。
むしろ本来一緒になるべきではないから、ウィルスが激烈な反応をしているのではないかと。

そして、コロナウイルスの他にも動物由来感染症がまた新たなパンデミックを引き起こす恐れはある。
ならば、私たち人間が自然を追い詰めないようにしなければならない。

ここから考えると、私たちは自然界を荒らさず脅かさず追い詰めず、私たちは野生動物やウィルスの暮らす圏域から距離を取り、お互いに「棲み分ける」しかない。
私はこの説を知ってから、地球大での、様々な生物の暮らしのためには、人間が自然界をよく知り、未知に謙虚になり、人間側からだけ考えた共存の哲学のようなものを、押し付けないのが大事ではないかと思えた。
そのために、自然を知るということがますます必要になる。

まさに、宮崎駿が「もののけ姫」で「祟り神」や「ダイダラボッチ」で示したことや岩明均が「寄生獣」で示したことにちがいない。

私たちは、自然に手を咬まれ(アシタカや泉新一は手を咬まれる)、自然の未知と威力を「畏怖する」感覚を取り戻さねばならないと気づいたのだろうか?

人間は人間として、そのような未知への畏れを持つ必要があるだろう。

だから「神」の視点から「人間は、自然のために邪魔だから滅びるべきだ」とは言えない。
人間は「神」の視点も「動物」や「ウィルス」の立場にも立つことはできない。
立てると思ったらそれは行き過ぎではないだろうか。自然や神を例え話にしたりはするが、本当はわからないのではないか。
それを「わかる」とし、神や「自然」の立場から一人間が人間を裁くことはできないだろう。
だから私は一人間として、コロナ禍から人間が命を守るという立場に立つ。
必ず弱者やマイノリティーが被害を受けるのに、それを高みの見物して、コロナ大丈夫を吹聴するトランプのような気持ちにはなれない。

私たちは自分たちの命を守り生きていくしかない。それは、科学や言語というやり方ではあるかもしれない。まだまだ私たちは自然の意味をそのように客観化し言葉にしなければならない。
そんなものは面倒と思う人がいるかもしれないが、しかし、新型コロナや放射能の危険を誤魔化すニュースに振り回される私たち地球人はまだまだ、言葉と科学によらなければ、知識を会得できる段階かもしれないからだ。
言葉や科学にたいして直接性や体験が賞揚されることがあるが、自分の体験できる範囲は限られているため、シェアのための、言葉や論理は必要である。

知識を身につける過程で、自然を畏れ、自然との適切な距離関係を測り、お互いを命として、畏れ敬う文化が育つ必要があるのかもしれない。
それが、新たな環境保護の精神かもしれない。

これは新しくて古い宗教的な課題である。