細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「火垂るの墓」と「はだしのゲン」ー名作から見る戦争とオリンピックにおける「現実否認」の危険とその暴走について

高畑勲監督アニメ映画「火垂るの墓」は、中沢啓治作のマンガ「はだしのゲン」とほとんど正反対の描き方を用いた作品であるが、人間が集団で、戦争のもたらす過酷な現実を否認し、歪めて美化しつづけた結果、どんなに過酷な帰結となるかというテーマは同じなのである。

コロナ禍の現実、予想される命のリスクをなきが如くにし、私たちの暮らしの被害を置き去りにしてオリンピックをしようとする、原発事故の現実を封印してしようとするという状況は許しがたいものだ。

その中で、上記2つの作品を見た場合、胸に突き刺さるものがある。

両者の大きな違いは、「はだしのゲン」が生者による「巨大な死」の描写であり、「火垂るの墓」が1988年の神戸をさまよう2人の兄妹の亡霊による「死者」の眼差しで見た「死に向かう日々」の描写である。

また、「火垂るの墓」の父親が海軍大尉であり、「はだしのゲン」の父親が戦争反対論者という意味でも正反対である。


火垂るの墓」の兄妹は、父親が「戦争に勝って帰ってくる」という夢想、自分たちは海軍大尉の子どもというイメージに浸って辛いことを凌いでいるようだが、それは空襲による母の死や母の死のあと置いてもらったおばの家での現実や日本の敗戦、父の死という形で、「必ず勝つはずの海軍大尉の子ども」という自己像は自らを逆に追い詰め、死へと追いやられる。
反対に、「はだしのゲン」の父親は、あの当時反戦の立場で迫害や貧困に耐えながら、筋を通そうとし続けて原爆で亡くなる例外的な人物である。
ゲンの兄は、そんな父に反発し、予科練を志願するが、過酷な現実を知る、ゲン自身は父から敗戦が近く過酷な現実であることを伝えられながら、麦のように強くと教えられ、その教えに励まされながら被爆後の広島を生きるのである。

両者は、日本の国が「敗北」の想定や「侵略の悪」という不都合な現実から社会全体が目を逸らして、陥る現実の果ての2つの過酷な現実を描いている。

上記2作品とも、戦後復興した社会において、侵略戦争と敗戦で問われた日本の課題が放置されたままになっていることを問うているのである。
はだしのゲン」がひたすら、辛い被曝の現実を描きながら、子どもたちの笑顔が同時に描かれ、「火垂るの墓」が高畑監督自身に「反戦映画ではない」と言わしめているのはなぜか。

それは、人間が不都合な現実を否認して、現状を批判的に見られなくなることが、どんなに巨大な破壊や死を生み出すかは、単なる戦争だけの課題ではなく、「普遍的なこと」だからである。

その事実は懸命な、悲痛な人間のありのままの姿を描かねば他人事にされてしまいかねない。
単なる戦時の特殊事例ではない、そのような普遍的な教訓を観客に知らせたいのである。

戦争は平常の現実政治の延長である。

腐敗や格差が温存され、不況や災害や疫病では、民衆にツケが回され、民衆はさらにマイノリティーを叩いてしまう。敵意と憎悪と差別と同時に、都合の悪い現実に目を閉ざすフェイクニュースや右派言論がSNSのみならず、現実を侵食する。
この何十年、バブル以降、原発事故、コロナ禍で、どれだけ、様々な命へのリスクを真剣に考慮せず、自己責任で切り捨てることが行われてきたか。

地球の人間社会が過酷な現実を封印して、今までの問題のある世界を追認してきたからこそ、不平等で、環境破壊的な産業形態が温存され、破局が目前になっている。

つまり、第二次世界大戦や冷戦は人間同士の戦いであり、その後の紛争もそう見えるけれども、その戦争と同時に、環境破壊が起きてきたのである。

放射能汚染やパンデミックは、人間社会が無謀な開発行為を行い、環境破壊をした結果、様々な毒物の氾濫に抑制が効かなくなっているのである。環境破壊が野性動物の生存域を脅かし、野性動物のウィルスが人間に感染して変異したコロナ禍、環境を無視してきた原発地震リスクを考慮しなかった原発の爆発。

それらによって起きたのは、自然の修復作用を越え、脅かす現実なのである。

その危険な現実をまずは見つめること、その先にしか未来はないのだ。
76年前の破局は、今日、地球規模の政治・経済体制の破綻、環境破壊となって繰り返されようとしている。

辛い現実から私たちは、その意味や教訓を学びとり薬にするしかないだろう。
そのための、材料は破局の危険に目を逸らしさえしなければ、山ほどある。

むしろ今日危機的なのは、「破局の危険」を正視、分析することを阻んだり、リスクを否定する流言である。

環境危機、原発事故、コロナ禍、災害などで、人心が荒廃すればするほど、人は憎悪を見当違いにぶつけ、実際に何が起きているのかを考えることを妨げる言葉に惹かれていく。

辛いという気持ちは理解できるし、私も辛い。けれども、戦時中や災害下で流された流言には差別的、攻撃的なものも数多くあったと考えるなら、流されないことの方が、破局的な現実から回復するのに必要で、それと同時に自らの辛さや悲しみはけして否定しないということが大事だ。
はだしのゲン」が教えてくれているのはそのような危機の中での知恵である。

目を向けねばならないのは環境危機や様々な災害や格差による生活危機、命の危機である。

 

このような状況で、オリンピックをしようとするのは、人間の健康や権利を踏みにじること。それをオリンピック推進体制が容認しているといえる。

とんでもないこと。

オリンピック推進体制そのもの、オリンピックそのものに問題があるということに他ならない。