細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

コロナ禍や地球災害の日常を生きる命の「騒めき」を聞き取るーBUMP OF CHICKEN“flare”

BUMP OF CHICKEN“flare”

これは、コロナ禍で変貌する日常と命の感覚をしっかり定着した歌だろうと感じた。
ぜひ聞いてみてほしい。
https://youtu.be/pDFkg9L5wJY

様々な理由で、コロナ禍についてシニカルであったり、どう語ってよいのか途方に暮れたりする人もいるかもしれないが、命というものが世界の重要な構成を担っているという眼差しを持てば事態は明瞭である。

人間はウィルスという生物と無生物の間の存在(本質的にintersectionalな存在)に侵襲されることで、人間の存在も過渡的で脆弱で不安定な生命に過ぎないことを告げ知らされる。

人間の生命も、ひとつひとつの細胞がウィルスに乗っ取られることで、そのミクロな侵襲の連鎖は恐るべき事実を開示する。
私たちの世界は、本当は、無数の隙間を細いガラスの糸でつないだものに過ぎなかったのだ。

それを「終わったって気づかれないような、こんな日々を明日に繋ぐ事だけはせめて繰り返すだけでも繰り返すよ」と歌う。

BUMP OF CHICKENは、ガラス細工のようなか細い日々を生きる私たちの頼りなさを的確に描写している。

さらにそれは「一人じゃないと呟いてみても感じる痛みは一人のもの」と、全く孤独に引き受けざるを得ない痛みの中で、とにもかくにも繋ぐと宣言されるのだ。
少なくとも私はこのような日々を送っているし、それは幼い頃から本当はそうだったのかもしれないと思える。
いじめだって、差別だって、人は「つながり」の中での「一人のもの」の「痛み」だ。

コロナ禍に限らず一人一人を襲う危機や絶望はあり、その生きづらさ、苦悩の中で「一人のもの」である「痛み」から命の自覚は始まる。

 

「誰も知らない命の騒めき 目を閉じて一粒 どこにいたんだよ ここにいたんだよ ちゃんとずっと」
むかし、私も命はざわめきであると感じたことがあり、静かで孤独な感性には「騒めき」にみえるそれは、実は「騒がしい」ものではなく、潮騒とか、風の音のように確かにどこかから、聞こえてくるのである。
それは、呼吸音かも知れず、泣き声かもしれず、喜びや美しさを讃える声かも知れず。
そのような、世界とか命があるということを教えてくれて、私たちの不安な、絶望的な命にさえ働きかけとくる。
それは「ちゃんとずっと」いたのだ。
コロナ禍で脅かされる呼吸音。
それを「命の騒めき」と捉えるなら、その「騒めき」と世界の律動や吐息の危機として、地球的規模の森林の呼吸の悲鳴として地球環境危機をイメージすることさえできる。

大切なものを確かめることは、私たちの危機を知ることへとつながる。

「巨大な星のどこかで いくつの傷を抱えても どんな落とし物しても 塗り潰す朝」
この朝はコロナ禍だけでなく、様々な地球的なカタストロフの比喩にすら思える。
そんなカタストロフの日常となった毎日の中で「また目を覚ます 孤独の騒めき 落とさない ひとつぶ」と生きる決意が歌われている。

 

また、カタストロフの日常は、一人一人の精神的危機であり、実は私が内側から感じる危機とは、例えば、精神疾患などのように世界を変貌させるものもある。

これは社会の巨大なカタストロフだけでなく、たった一人のカタストロフのなかで、毎日目覚めることの意味を歌ったものでもあるだろう。

 

 

「壊れた心でも 息をしたがる体」
「鼓動が 星の数ほど混ざって 避け合って 行き交って 迷路みたいな交差点 大丈夫 渡れるよ」

これらは、コロナ禍でも、社会的距離の「避け合って 行き交って 迷路みたいな交差点」の中で懸命に「息をしたがる体」の命を強く支える言葉となる。

 

※斜体は加筆部分