細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

主治医に薦められたトラウマ本と、自分の苦しみについて

電子書籍で白川美也子「赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア」を買いました。


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精神科の主治医が、私のケアの参考にと薦めてくれました。

あなたは、発達特性のみならずトラウマの影響も強いだろうと最近主治医に言われたのです。

 

近年集中力や気力が低下し、なかなか読書がしんどくなっています。

しかし、これは、主治医の出してくれた薬だと思って読みました。

(複雑な内容の本は力がなくまだまだ読めなくて)

 

この本は、やはりケア的な感覚があります。

白川さんの文章は暖かく傷のある人間に優しく語りかけてきます。

 

他方、白川さんは、内容を過度に単純化していません。

トラウマに関する精神医学的な理論を概観できます。

 

さらにトラウマを抱える登場人物たちが、トラウマに気付き、その傷を抱き締めて、自分自身を育てていく様子を描いています。

 

私は、小学校から高校生まで、いじめを受けました。

肉体的な暴力は小学校が一番激しかったですが、断続的にスクールカーストの底辺に置かれ、からかいや蔑みを受けてきました。そのあといろんなことにさらに自信がなくなりました。

 

今も恐怖や不安に襲われて、日常生活に苦労しています。

比較的元気なときは社会運動に参加したりしていましたが、ここ何年も慢性的に疲労状態な上にコロナもあり、本格的に社会運動に参加するのが難しくなりました。

 

私はこれまで、自分の心が辛いのは仕方ないと諦めている部分もあります。

たぶん苦しみがわかっても、基本的な体質は母に似てしんどいことが多いでしょう。

しかし、少しでも苦しみをやわらげるために、自分の苦しみを知ることは、必要かもしれないと思い始めました。

【詩作品】繰り返しのはじめまして

「繰り返しのはじめまして」


新しい海岸で
まばたきをして
まだできる息が喉の奥へ
流れ
腹でふくらんで
喉から飛び出して行く

生きることは
繰り返しだった
繰り返しのはじめまして
だった

冷たいみどりの
歌が風にながれる
厳しいんだ
なにもかもが
優しくて
なにもかもが
だから
人間とか
オレとかオマエとか
なんなんだって
フローと
渦巻く風と

光があるのだから
そうそして
崖や海が輝いて
暗い暗い
光の底から

もういい加減にしろと
早く眠れと
うず高く積もった
宿題がくずれて

解いても解いてもきりがないよ

だから
日々
倒れながら
生きて
歌って
疑って
流れて
いるんだよ

【詩作品】魂は矛盾して

「魂は矛盾して」

短い先は長かった

魂は矛盾して墓穴を
掘る

溢れてくる水を
飲み干し
今だ燃える荒野を
歩き続けている

あの時のように
遠ざかりそうな意識
組み直して
私のめまいの先を
一切が未来につながってると
思えない

そのあとに未来があっても
滅びは続いて
立ち上がれといわれても
立てなくて
痛い痛いと
絞り出している

暗い歌だなんぞと
笑わないでおくれ
深刻ぶった顔など
やめてくれ
今は昔
今は未来
実現した夢のまま
それは
壊れることを
定められていた

ハロー事実は
虚空の地球
美しい歯車が
静かに回転して
滑ってゆく
無に向かって
いつまでも無に至らなくて

これは今日の食事
眠けマナコで
消費し
消化して
かけがえのない今日は
虚空を周り続けている

【詩作品】「コロナ禍で定まったこと」「どこまでもいつでも」他、無題

「コロナ禍で定まったこと」

 

コロナ禍で定まったのは
この命が現場だということだ。

他人事にする、しないはない
他人事にできない
私たちはどこにも
誰にも
私の元となる命の
光を見る
不安を見る

まず私の命を感じずに
感染症は捉えられまい。
どこかに誰かに
祈りを捧げ
命を捧げても
私の分裂
ーあなたの分裂ー

癒されまい

感染症という不安なものが
私とあなたのつながりを
思い出させる

分裂や否認では
対処できまい

 

なかったことにできない
この災厄の存在が
私の
私の中にある
世界にある様々な災厄は
命を通じてだけ
つながり
どこにもあらわれる

勝手にやれ
好きにやれ
遠くの空へ飛んで行け

自分探しはもう嫌だ
私は私でしかない
探す必要がないものを
探しに行く必要がない

私自身が問題だった
このねじれた感受性

私たちは
自分の命を喪失して
他者の命を忘れていた

そんなバカなことはない
命を忘れた人間に
命を革命することは
できない

 

 

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「どこまでもいつでも」
 

どこか遠くに行かなくても
ここにある場所に
閉じ込められなくても
命は自在な場所ではないのか
やる気を失い
道の真ん中で
夏の勢いが
失われた光の中に
膝を屈して
へたりこむ

無力は馴れているふりをして
今だにこたえるし
なけなしの力を
無駄遣いするのは
やめた

海がきれいだ
私の神経が浸かる
海がきれいだ
青緑に揺らめいて
この世界の恥を思い出す
恥はおまえの
作り出した幻想であるが
誰も本当は幻ではない

他人を夢まぼろしのように
扱い
この世の端っこで
震えている
私は
赤い血の色に
染まりながら
目を閉じている

風が吹き
新しく涙が流れ
昔を思い出して
恥とわずかな喜びに浸る
思い出して
ましなことがあるから
といって
明日が輝くわけではない

寝そべって
青緑の海底に
私は
沈んでいく

温暖化して
熱波に包まれた神経は
痛みを
伝えるんだ

逃避の
現実逃避の
昼寝の海底にも

痛みが
命の現実を届ける

なんたる
なんたる現実の
健やかな
執拗さ

いつまで

 

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「無題」

 

宿題に締め切りはなく
果てることない稜線を歩く
何度間違えられ
再び間違うだろう
そうして踏みしめられてきた道を
変われるというのか
おまえの塗り重ねられた
記憶
それでも変わる望みを
持つのか
この時間の果ての
今に

「ゼロコロナ」に対する「誤解」は、「被曝受忍反対」に対する「誤解」と似ている。

 

 

「ゼロコロナ」に対する「誤解」は、「被曝受忍反対」に対する「誤解」と似ている。

事故や災害の結果の被害は仕方ないから受け入れなさいという「俗流現実論」(コロナ共生、withコロナ的な)が「もうこれ以上なるべく被害を繰り返さない目標設定を」という切実な願いを「理想論」と切り捨てる中で、政府による被害の受忍論がまかり通っていく。

つまり、「コロナ感染」や「放射線被曝」の被害を償う、人々を被害から守る責任が「自然現象」にすり替えられる。

東電や国が「想定外の地震津波」のせいにすることは現実に起きている。

また、感染拡大が起きオリパラを開催して、感染拡大がさらに、増加しても菅総理は「デルタ株」のせいにしていた。

 

人々はすでに原発対策の不備や安全神話の結果、汚染や被曝を強いられた結果に対し「補償、避難、健診」を求めているのに、あるいは政府の防疫対策が不備で「感染被害やそれにまつわる社会被害」を強いられた結果に対し「検査、治療、補償」を求めているので答えは「コロナ(放射能)との共生」ではない。

原発事故被害者に対しては、安全な水や空気を求めて移住する支援したり、被曝の不安に対し、健診などを行うべきだし、被曝源を東京電力敷地などに移し隔離することである。
また、コロナ検査を徹底し、感染抑制して、自粛に対しては補償し命と暮らしの安全を回復するよう政府がおこなうことである。

この前提がないと、原発事故では避難が自己責任にされ、汚染物質が隔離されず、乱暴に海に捨てられ、公共事業で土に埋められるなどという国や東電の責任の否定が起きる。これは現実に起きている。

 

あるいは感染拡大が繰り返されるのを放置すれば、からだの弱い人が死んで行き、やがて病床がなくなり、入院できなくなる。あるいは感染者は後遺症を抱えるし、感染が収まらないので、誰も社会活動が安心して行えなくなる。

これも実際に起きている。

耳障りのよい「共生」というイメージは危険だ。

「共生」は国の責任放棄により強制されているのだ。

医療崩壊状況の東京都。都民が危険にさらされている。障害者アスリートの搬送先が見つからない恐れをIPCは「想定せず」パラリンピック開催反対です。

いま、東京都は医療崩壊です。そして、オリパラ開催側は選手や大会関係者に怪我人やコロナ患者が出ても、入院できない可能性を想定してないそうです。

 

選手の入院困難、想定せず 感染者増とパラ開催「関連ない」―IPC会長〔パラリンピック〕:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2021082300944&g=spo

 

国際パラリンピック委員会(IPC)のパーソンズ会長は23日、東京パラリンピック開幕を翌日に控えてメインプレスセンターで記者会見し、新型コロナウイルスの感染拡大により入院できないコロナ患者が国内で増えている中で、選手と関係者の入院が受け入れられない状況を想定しているかどうかを問われて「答えはノーだ」と述べた


当事者の障害者の安全を守る気さえないのも同然です。


また都内のコロナ患者も一般診療患者も医療崩壊で置き去りになってます。
開催には反対です。

政府がコロナ禍や原発事故や猛暑(気象災害)、大会関係者の差別言動にもかかわらず、オリパラを強行することと、社会的に不利な状況にある人々への生活保障を削り続ける社会状況との関係について

政府のいう「復興」の意味は年間20ミリシーベルト以下に線量低下すればよいのだから、通常の年間線量限度1ミリシーベルトの20倍以下であれば被曝を受け入れさせることができるのであり、その基準より低下していれば、放射能汚染の多くの被害を「風評」として切り捨てることが可能になってしまっているのである。

原発事故の汚染水から十分に放射能を取り除けなかったタンクの水」は「薄めれば海に捨てられる」し、その政策を批判することは「あるはずのない被害=風評を煽ること」になるらしいのである。

いずれも、原発事故の被害が過ぎさったものとはいえないことを指摘すると直ちに「国の基準を認めず風評被害を煽ること」にされてしまう傾向がある。

低線量被曝を指摘するということは、放射線被曝に閾値がなく、10ミリシーベルト以下の被曝にもリスクがあることを示した50年前のアリス・スチュワートの発見にもかなうことである。この50年前に胎児は微量の放射線でも小児がんが発症するリスクがあることで、人間の細胞にとってもわずかな追加被曝が有害であることは明確になったのであり、さらに内部被曝については、原爆訴訟などで、政府の基準たるものが過小評価であることが度々言われているのに、それは「風評被害を煽ること」にされてしまう。

この次元では、国は「科学的知見に逆らって、低線量被曝を大丈夫とみなす機運の情勢」を持って、「風評被害」対策とし、「多少の放射線を気にするのは風評(根も葉もないデマ)」とされてしまっている。

つきつめれば、国は「放射能汚染は大したことないとしてしまった」から住民が「自己責任で被曝してもらえばよい」といっているに等しいひどいものである。

だから私は政府のいう意味での「復興」を目指す五輪という論理は、政府なりに非常に悪い意味で一貫していると思う。
政府のいう「復興」とは「放射能汚染を風評とみなし、市民の気のせいであるから、気にしなくなれば復興」だからである。
気にしなくなるような状況さえ作れば、そのような基準なり流れを用意して反対を無視すれば、政府や東電が賠償「しなくてもよくなる」「だから汚染水を海に捨てようが、汚染土を公共事業に使おうが」かまわんとなってしまうのである。
これはひどい

だから政府は政府の考える意味での「復興五輪」をやったつもりなのである。
ゆえに本当は「こんなの復興五輪ではない」よりさらに突っ込んで、「政府のいう復興はダメだ」から、避難の権利や被曝健診、補償をしろとなる。

また「猛暑という気象災害も気にしなくてよい」「温暖で最適な気候と偽って招致」したゆえに「地球環境問題に取り組む気もちはあまりない」という意味で、東京五輪は遂行されている。ひどい。

また、放射能汚染や猛暑を「気にするな」なのだから、コロナ被害も「気にするな」となってしまう。「PCR検査をたくさんしたら、病院にたくさん患者が来るから、検査を増やさない」「医療病床が不足したから重症者以外は自宅で我慢して」など、とても「コロナ感染抑制対策」として成立していない「コロナ対策を抑制する政策」を行使してきた。挙げ句「ワクチンも十分供給できません」で五輪を開催している。

これは国は「コロナ対策を出来そうにないし、やる気もないからコロナに無防備に共存してくれ、安全は諦めてくれ」といっているようにしかみえない。

これをまとめると「コロナとは共生」なのだし、「病床も足りない」ので、「自宅で我慢して寝ていてもらおう」「結果亡くなってもウィルスのせいで、国の責任ではない」としたいために、5類感染症にグレードダウンして、政府が可能な対策を減らしたがっている。
恐ろしいが政府は、自分の無為無策を正当化するために、「放射能汚染との無防備な共生」「猛暑との無防備な共生」「新型コロナとの無防備な共生」「差別をする側に対する寛容」などを目指す五輪を開催したのである。
だからオリンピズムとの乖離をいくらいってもオリンピックは「ナチズムとの共生」「超大国アメリカとの共生」などを目指し、現行の世界秩序の中での「強いもの」とうまくやりながら金を出してもらう、吸いとるのがオリンピックなのであって、オリンピック推進勢力は、「五輪を安心安全に遂行した」と居直るのである。

日本政府は、リスクから人びとを守らないので勝手に病気になるなり、死ぬなりしても、「因果関係は認める気はありません」でずっときた歴史があるから、おそらく腐敗した五輪にとっては、開催にうってつけだったのだろう。

日本人は、権力犯罪に寛容であるから、いくらデタラメをしても「純粋な選手の汗と感動を見せつければ許してくれる」と思われているだろう。

「汗と感動」で様々な被害や苦しみをその瞬間忘れられるということは、なぜ可能になってしまうのか。

メンタリストDaiGo氏のように「猫は自分を癒してくれるから大事」しかし「自分を不快にし、居心地の悪い気持ちにさせる被差別階級ー例えば生活保護受給者」への「排除」を望むという、つまりは「自分が関係をもちたくない人」の「存在、権利」は「認めない」という考えに至ってしまう。

しかし、生活保護受給者は、日本の最高法規たる「日本国憲法」の25条の下で、「最低限度の文化的生活」を営めないほどの「貧困」に至った場合は、国に生活を保護する責務があるので、それで生活費用を受給する権利があるからしているにすぎず、なにも悪いことはしていない。

つまり、氏はこのような国の責務や人びとの権利やその履行状況そのものが不快であり、つまりは、基本的人権そのものを不快に思っているのだろうか。なぜ、十分に稼げない人をそんなに憎む必要があるのだろうか。

この論理はつまり自分の「気分がよくなると認めたものだけ」をみて、「自分の気持ちが不安定になるようなこの国や社会の他人の貧困や困難」を「見せるな」という以上に「存在」を排除せよということか。

ここで何が起きているか、自分の存在や思想を揺るがす他者を「視線から叩きだし」「存在や尊厳を奪う」ことによって、五輪や社会的排除の正当化が可能になってしまっている。

これに対し「想像力を持て」といって相手がへこたれて考えを変えるだろうか。そもそも「自分がみたくないものは排除する」という快楽原理と分かちがたく結び付いてしまった差別。
ここで、「自分」といわれているのは、本当は「国家や経済の支配層」の眼差しである。
「マイノリティーや国策被害者など」に「びた一文予算を使いたくない」という支配者たちに、眼差しのレベルで同一化し「想像力」を遮断しているのだ。

私はあらためて、社会を構成する根底的な論理の次元で、共感や想像力とは別の形で、他者の命と尊厳を保障しなければ、自分も危機に陥るということをいいたいと思う。

まさにコロナ禍がそうだ。

コロナ禍では、感染を媒介にして自分が危険であることと他者が危険であることが、命としてつながっていることがわかった。
感染防御は自分だけ、他人だけが守られても完遂しない。
自分と他者がどちらも感染にさらされないことが揃ってはじめて、命を守る行動になる。
もちろん、社会には最低限の相互行為が必要だ。そしてその安全を守るために、様々な対策がある。

つまり、地球環境問題にしてもコロナ禍にしても原発事故にしても、他人と自分の命を同時に大切にする必要があり、むしろ、被差別者、被害者を「無関係な邪魔者として、排除する」ネオリベラリズム的な論理こそが、私たちの命と尊厳をますます危機に追いやっている。

 

 

政府の予算って、単に政府が一時預かりしたり、収奪したものだったわけですから、コロナ予算が20兆円も執行できてないとか、五輪にはバカバカ使うとか、冗談じゃないぞと思うわけですが、どこもかしこも国家には迷惑かけないとか依存しないとか精神論と同時に国家の傲慢さだけが肥大してますよね。

「私たちの金なんだから、困ってることに使えよ」という話なんですけどね。
この「私たち」はお金を持って納税をしている人だけではありません。
学校や労働や社会の中で、必死に頑張ったり、苦しめられたりして、すでに働けない人も含みます。日本の社会で暮らしてくるしんでいる外国人も含みます。
身銭を切られてぼろぼろになってもなんとか生きている人すべてが、日本社会に何らかの財をもたらす人なんです。

日本政府は、私のような精神障がい者も含め、なんらかの困難を持つ人々への福祉を削減してきましたし、地域医療病床などを削減してきました。
これは立派な政府による搾取です。

さらに、社会的にマイノリティーや不利な状況の人々にたいする医療福祉削減圧力を、高齢社会への不安や自己責任論や能力主義を企業や学校で植え付けられ過剰適応した人々が選挙などで後押しします。

その帰結が、「コロナは大したことない」の論調を生み出し、コロナ禍の検査抑制や医療崩壊となり、人々の命が失われたり、後遺症に苦しんだりします。

コロナや放射能や気象災害は大したことないと思っている人が多いのか、国家に迷惑かけちゃならないとか、国家には近づかないと思っているのか、違うんですよ国家が私たちに依存して金をむしりとっているくせに偉そうだからおかしいんですよ。

国家が私たちに依存して偉そうに五輪して「お前らのために五輪やったのにコロナ感染拡大とか文句言うな」とふんぞり帰っているのが問題なんです。

被害を救うために金使えというべきなんです。コロナ禍、原発事故、気象災害の対策に金使え、地球の命を救うことをしなさい!