細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「ゼロコロナ」に対する「誤解」は、「被曝受忍反対」に対する「誤解」と似ている。

 

 

「ゼロコロナ」に対する「誤解」は、「被曝受忍反対」に対する「誤解」と似ている。

事故や災害の結果の被害は仕方ないから受け入れなさいという「俗流現実論」(コロナ共生、withコロナ的な)が「もうこれ以上なるべく被害を繰り返さない目標設定を」という切実な願いを「理想論」と切り捨てる中で、政府による被害の受忍論がまかり通っていく。

つまり、「コロナ感染」や「放射線被曝」の被害を償う、人々を被害から守る責任が「自然現象」にすり替えられる。

東電や国が「想定外の地震津波」のせいにすることは現実に起きている。

また、感染拡大が起きオリパラを開催して、感染拡大がさらに、増加しても菅総理は「デルタ株」のせいにしていた。

 

人々はすでに原発対策の不備や安全神話の結果、汚染や被曝を強いられた結果に対し「補償、避難、健診」を求めているのに、あるいは政府の防疫対策が不備で「感染被害やそれにまつわる社会被害」を強いられた結果に対し「検査、治療、補償」を求めているので答えは「コロナ(放射能)との共生」ではない。

原発事故被害者に対しては、安全な水や空気を求めて移住する支援したり、被曝の不安に対し、健診などを行うべきだし、被曝源を東京電力敷地などに移し隔離することである。
また、コロナ検査を徹底し、感染抑制して、自粛に対しては補償し命と暮らしの安全を回復するよう政府がおこなうことである。

この前提がないと、原発事故では避難が自己責任にされ、汚染物質が隔離されず、乱暴に海に捨てられ、公共事業で土に埋められるなどという国や東電の責任の否定が起きる。これは現実に起きている。

 

あるいは感染拡大が繰り返されるのを放置すれば、からだの弱い人が死んで行き、やがて病床がなくなり、入院できなくなる。あるいは感染者は後遺症を抱えるし、感染が収まらないので、誰も社会活動が安心して行えなくなる。

これも実際に起きている。

耳障りのよい「共生」というイメージは危険だ。

「共生」は国の責任放棄により強制されているのだ。

医療崩壊状況の東京都。都民が危険にさらされている。障害者アスリートの搬送先が見つからない恐れをIPCは「想定せず」パラリンピック開催反対です。

いま、東京都は医療崩壊です。そして、オリパラ開催側は選手や大会関係者に怪我人やコロナ患者が出ても、入院できない可能性を想定してないそうです。

 

選手の入院困難、想定せず 感染者増とパラ開催「関連ない」―IPC会長〔パラリンピック〕:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2021082300944&g=spo

 

国際パラリンピック委員会(IPC)のパーソンズ会長は23日、東京パラリンピック開幕を翌日に控えてメインプレスセンターで記者会見し、新型コロナウイルスの感染拡大により入院できないコロナ患者が国内で増えている中で、選手と関係者の入院が受け入れられない状況を想定しているかどうかを問われて「答えはノーだ」と述べた


当事者の障害者の安全を守る気さえないのも同然です。


また都内のコロナ患者も一般診療患者も医療崩壊で置き去りになってます。
開催には反対です。

政府がコロナ禍や原発事故や猛暑(気象災害)、大会関係者の差別言動にもかかわらず、オリパラを強行することと、社会的に不利な状況にある人々への生活保障を削り続ける社会状況との関係について

政府のいう「復興」の意味は年間20ミリシーベルト以下に線量低下すればよいのだから、通常の年間線量限度1ミリシーベルトの20倍以下であれば被曝を受け入れさせることができるのであり、その基準より低下していれば、放射能汚染の多くの被害を「風評」として切り捨てることが可能になってしまっているのである。

原発事故の汚染水から十分に放射能を取り除けなかったタンクの水」は「薄めれば海に捨てられる」し、その政策を批判することは「あるはずのない被害=風評を煽ること」になるらしいのである。

いずれも、原発事故の被害が過ぎさったものとはいえないことを指摘すると直ちに「国の基準を認めず風評被害を煽ること」にされてしまう傾向がある。

低線量被曝を指摘するということは、放射線被曝に閾値がなく、10ミリシーベルト以下の被曝にもリスクがあることを示した50年前のアリス・スチュワートの発見にもかなうことである。この50年前に胎児は微量の放射線でも小児がんが発症するリスクがあることで、人間の細胞にとってもわずかな追加被曝が有害であることは明確になったのであり、さらに内部被曝については、原爆訴訟などで、政府の基準たるものが過小評価であることが度々言われているのに、それは「風評被害を煽ること」にされてしまう。

この次元では、国は「科学的知見に逆らって、低線量被曝を大丈夫とみなす機運の情勢」を持って、「風評被害」対策とし、「多少の放射線を気にするのは風評(根も葉もないデマ)」とされてしまっている。

つきつめれば、国は「放射能汚染は大したことないとしてしまった」から住民が「自己責任で被曝してもらえばよい」といっているに等しいひどいものである。

だから私は政府のいう意味での「復興」を目指す五輪という論理は、政府なりに非常に悪い意味で一貫していると思う。
政府のいう「復興」とは「放射能汚染を風評とみなし、市民の気のせいであるから、気にしなくなれば復興」だからである。
気にしなくなるような状況さえ作れば、そのような基準なり流れを用意して反対を無視すれば、政府や東電が賠償「しなくてもよくなる」「だから汚染水を海に捨てようが、汚染土を公共事業に使おうが」かまわんとなってしまうのである。
これはひどい

だから政府は政府の考える意味での「復興五輪」をやったつもりなのである。
ゆえに本当は「こんなの復興五輪ではない」よりさらに突っ込んで、「政府のいう復興はダメだ」から、避難の権利や被曝健診、補償をしろとなる。

また「猛暑という気象災害も気にしなくてよい」「温暖で最適な気候と偽って招致」したゆえに「地球環境問題に取り組む気もちはあまりない」という意味で、東京五輪は遂行されている。ひどい。

また、放射能汚染や猛暑を「気にするな」なのだから、コロナ被害も「気にするな」となってしまう。「PCR検査をたくさんしたら、病院にたくさん患者が来るから、検査を増やさない」「医療病床が不足したから重症者以外は自宅で我慢して」など、とても「コロナ感染抑制対策」として成立していない「コロナ対策を抑制する政策」を行使してきた。挙げ句「ワクチンも十分供給できません」で五輪を開催している。

これは国は「コロナ対策を出来そうにないし、やる気もないからコロナに無防備に共存してくれ、安全は諦めてくれ」といっているようにしかみえない。

これをまとめると「コロナとは共生」なのだし、「病床も足りない」ので、「自宅で我慢して寝ていてもらおう」「結果亡くなってもウィルスのせいで、国の責任ではない」としたいために、5類感染症にグレードダウンして、政府が可能な対策を減らしたがっている。
恐ろしいが政府は、自分の無為無策を正当化するために、「放射能汚染との無防備な共生」「猛暑との無防備な共生」「新型コロナとの無防備な共生」「差別をする側に対する寛容」などを目指す五輪を開催したのである。
だからオリンピズムとの乖離をいくらいってもオリンピックは「ナチズムとの共生」「超大国アメリカとの共生」などを目指し、現行の世界秩序の中での「強いもの」とうまくやりながら金を出してもらう、吸いとるのがオリンピックなのであって、オリンピック推進勢力は、「五輪を安心安全に遂行した」と居直るのである。

日本政府は、リスクから人びとを守らないので勝手に病気になるなり、死ぬなりしても、「因果関係は認める気はありません」でずっときた歴史があるから、おそらく腐敗した五輪にとっては、開催にうってつけだったのだろう。

日本人は、権力犯罪に寛容であるから、いくらデタラメをしても「純粋な選手の汗と感動を見せつければ許してくれる」と思われているだろう。

「汗と感動」で様々な被害や苦しみをその瞬間忘れられるということは、なぜ可能になってしまうのか。

メンタリストDaiGo氏のように「猫は自分を癒してくれるから大事」しかし「自分を不快にし、居心地の悪い気持ちにさせる被差別階級ー例えば生活保護受給者」への「排除」を望むという、つまりは「自分が関係をもちたくない人」の「存在、権利」は「認めない」という考えに至ってしまう。

しかし、生活保護受給者は、日本の最高法規たる「日本国憲法」の25条の下で、「最低限度の文化的生活」を営めないほどの「貧困」に至った場合は、国に生活を保護する責務があるので、それで生活費用を受給する権利があるからしているにすぎず、なにも悪いことはしていない。

つまり、氏はこのような国の責務や人びとの権利やその履行状況そのものが不快であり、つまりは、基本的人権そのものを不快に思っているのだろうか。なぜ、十分に稼げない人をそんなに憎む必要があるのだろうか。

この論理はつまり自分の「気分がよくなると認めたものだけ」をみて、「自分の気持ちが不安定になるようなこの国や社会の他人の貧困や困難」を「見せるな」という以上に「存在」を排除せよということか。

ここで何が起きているか、自分の存在や思想を揺るがす他者を「視線から叩きだし」「存在や尊厳を奪う」ことによって、五輪や社会的排除の正当化が可能になってしまっている。

これに対し「想像力を持て」といって相手がへこたれて考えを変えるだろうか。そもそも「自分がみたくないものは排除する」という快楽原理と分かちがたく結び付いてしまった差別。
ここで、「自分」といわれているのは、本当は「国家や経済の支配層」の眼差しである。
「マイノリティーや国策被害者など」に「びた一文予算を使いたくない」という支配者たちに、眼差しのレベルで同一化し「想像力」を遮断しているのだ。

私はあらためて、社会を構成する根底的な論理の次元で、共感や想像力とは別の形で、他者の命と尊厳を保障しなければ、自分も危機に陥るということをいいたいと思う。

まさにコロナ禍がそうだ。

コロナ禍では、感染を媒介にして自分が危険であることと他者が危険であることが、命としてつながっていることがわかった。
感染防御は自分だけ、他人だけが守られても完遂しない。
自分と他者がどちらも感染にさらされないことが揃ってはじめて、命を守る行動になる。
もちろん、社会には最低限の相互行為が必要だ。そしてその安全を守るために、様々な対策がある。

つまり、地球環境問題にしてもコロナ禍にしても原発事故にしても、他人と自分の命を同時に大切にする必要があり、むしろ、被差別者、被害者を「無関係な邪魔者として、排除する」ネオリベラリズム的な論理こそが、私たちの命と尊厳をますます危機に追いやっている。

 

 

政府の予算って、単に政府が一時預かりしたり、収奪したものだったわけですから、コロナ予算が20兆円も執行できてないとか、五輪にはバカバカ使うとか、冗談じゃないぞと思うわけですが、どこもかしこも国家には迷惑かけないとか依存しないとか精神論と同時に国家の傲慢さだけが肥大してますよね。

「私たちの金なんだから、困ってることに使えよ」という話なんですけどね。
この「私たち」はお金を持って納税をしている人だけではありません。
学校や労働や社会の中で、必死に頑張ったり、苦しめられたりして、すでに働けない人も含みます。日本の社会で暮らしてくるしんでいる外国人も含みます。
身銭を切られてぼろぼろになってもなんとか生きている人すべてが、日本社会に何らかの財をもたらす人なんです。

日本政府は、私のような精神障がい者も含め、なんらかの困難を持つ人々への福祉を削減してきましたし、地域医療病床などを削減してきました。
これは立派な政府による搾取です。

さらに、社会的にマイノリティーや不利な状況の人々にたいする医療福祉削減圧力を、高齢社会への不安や自己責任論や能力主義を企業や学校で植え付けられ過剰適応した人々が選挙などで後押しします。

その帰結が、「コロナは大したことない」の論調を生み出し、コロナ禍の検査抑制や医療崩壊となり、人々の命が失われたり、後遺症に苦しんだりします。

コロナや放射能や気象災害は大したことないと思っている人が多いのか、国家に迷惑かけちゃならないとか、国家には近づかないと思っているのか、違うんですよ国家が私たちに依存して金をむしりとっているくせに偉そうだからおかしいんですよ。

国家が私たちに依存して偉そうに五輪して「お前らのために五輪やったのにコロナ感染拡大とか文句言うな」とふんぞり帰っているのが問題なんです。

被害を救うために金使えというべきなんです。コロナ禍、原発事故、気象災害の対策に金使え、地球の命を救うことをしなさい!

 

 

「検査も病床も医療も予防接種も補償も手薄なまま、オリパラ開催中の感染爆発を耐えさせられる」現実と、「コロナは大したことないから科学的対策なしで自己治癒力や精神力で頑張ろう」という類いの論調の関係について

 

現在進行形で起きているコロナ禍の惨劇に対する日本政府の対応は、日本が戦前、戦後に行ってきた天皇制的なマイノリティーの排除と似たメカニズムをもつ。

オリパラ開催を感染症対策や補償より優先するという恐るべき事態は日本の近現代史における国策的惨劇の反復に見える。

国民的高揚や感動のために、人々の命や生活が引き換えにされているともいえる。
それは戦後において例えば戦争責任を根幹では否認した経済発展となり、経済侵略や公害や差別や原発の推進となり、被害者の切り捨てとなる。
感染者と経済被害者への支援を手薄くし、東京オリパラをするというものも本当によく似ている。国家や経済の見かけの発展のために、人々の苦しみは片隅に押し退けられるのである。
これは植民地侵略して、命や財を奪い、これを開発や戦争に当てたという侵略体制の経済システムと同じく、人権や生命の擁護への反逆である。

経済や国家の繁栄のために、人権や命を奪うというのは、まさに近代の負の側面の繰り返しである。

ところがコロナ禍がもたらすこの危機を否認する思想がある。
コロナ禍を精神論、自己責任、その人の治癒力だけで乗り越え可能とする思想であるが、それはこの感染症対策よりオリパラという暴力性の受け身的反映ではないか。
なぜなら、実際にコロナ禍を国からは自己責任で、即ち自宅で寝て、補償なしに耐えろ、オリンピックの感動という精神論で耐えろといわれているからである。

それは、検査も病床も医療も予防接種も補償も手薄な状況に耐えるということになる。

 

即ち自然治癒力と「心がけ」で「あきらめてコロナとノーガード共存しろ」という話になるだろう。それは例えば、コロナは平気論というものと酷似してくる。
コロナ禍でオリパラを敢行するような類いの国策と恐ろしく同期している考え方なのである。

だから、私は「真実に目覚める」のではなく、人権や生命の擁護と、起きている現象の客観的な分析が必要だといっているのだ。

コロナ禍も原発事故も気象災害(猛暑など)も「大丈夫耐えられる」という五輪の根性我慢精神とそれを支える差別的な大会関係者という図式はこの世界、日本の地獄ぶりを完璧に表している。中止を!

コロナ禍も原発事故も気象災害(猛暑等)も「大丈夫耐えられる」という五輪の根性我慢精神とそれを支える差別的な大会関係者という図式はこの世界、日本の地獄ぶりを完璧に表している。中止を!

コロナ禍も放射能の時と同じで、政府はなるべく負担と責任を負わずに状況から逃げ回って、自然と人間の命を大切にする体制への移行をさまたげている。ー兆候としてのコロナや放射能や気候変動の過小評価が政治家などから語られること

 

Rockn' Roll

Rockn' Roll

 

放射能の「風評被害」という言葉は結局、東電や国が十分な補償をするのではなく、「被災地の商品を買い支えよ」と全国の消費者の負担にすり替えたものだった。
でなければ、あれだけ閣僚が恫喝気味に「応援せよ」といったり、東電や政府は、被害者が事故の責任と補償を求める裁判で対抗措置を取るはずがない。

政治家やある種の御用学者などが垂れ流すコロナの過小評価も、放射能の過小評価も、よく似ているなと思う。

それは被害が起きたときに、国や自治体が責任を取り、被害の補償や支援を行わないための「空気を作る」ために活用されているということだ。

 

 

コロナの場合。

一部政治家や一部専門家やネットで出回るコロナの過小評価に加わった市民は、コロナ禍で様々な苦しい事情があったのかもしれないが、残念ながら科学的にだけでなく、医療崩壊が世界中で起きたことからわかるが、コロナは脅威である。それは、特に高齢者や持病のある人やマイノリティーを襲う。社会的に不利な立場、脆弱な健康状態にある人々から命を奪われる。ウィルスの感染源は、人間同士の接触や同一空間の共有であり、ビジネスと文化、コミュニケーションの根幹を襲う。
感染対策が気詰まりになりがちであるのは事実であるし、経済や社会活動は打撃を受ける。みんなが感染被害や経済被害や活動困難でなにがしか被害を受けている。(私は精神障がい者だが極めて調子悪くなった)
しかし、感染被害と経済被害は、ひとつのコインの両面だ。
それは「心配」を責めても仕方ない。
パンデミックで、自分や他人の命が心配にならない人はいない。感染とは、自他の接触で起きるから、防ぐには何らかの防御をしなければならないが、それは、「自他」両方のことを心配することでもあるのだ。

(だからといって、様々な障がいなどがあり、マスクをするのが難しい方などを批判しているわけではない)
コロナウィルスを生み出すきっかけとなったこの人間文明の環境破壊の抑止とコロナ被害への十分な対策と補償をしないで、オリンピックに奔走する政府やIOCが悪いのである。

コロナの場合どうなったかといえば、トランプや麻生太郎といった資本主義国家エリートが、公然とコロナを軽視する発言をした。
コロナ対策だけでなく、補償を骨抜きにし、人々が勝手にリスクを無視してくれればということを意図した邪悪な発言だと私は感じた。後日談だが、トランプは、コロナ感染したとき、最新の高度な治療を受け、ワクチン反対派の支持を受ける一方、ワクチンを接種していた。

支持者や市民に新型コロナウイルスのリスクを軽視するよう語りながら、本当は新型コロナウイルスのリスクの大きさを認識していたとしか考えられない。 

しかし、表面的なリスク軽視と深層でのリスク重視の間に、整合的な理路や説明がない。

これでも支持がなかなか衰えないのは、不可解さを感じてしまう。

 

トランプ氏、ワクチン打っていた 退任前に夫人と、公表せず―米:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2021030200767&g=int @jijicomから

トランプ氏のコロナ治療、一般患者との違いは? https://www.cnn.co.jp/usa/35160521.html @cnn_co_jpから

一国のリーダーに特別な措置を適用したり、可能な限り高度な治療を受けさせるのは当然のことかもしれない。しかし、今回トランプ氏が受けている治療の一部は、一般国民にはそもそも提供すらされていないものだ。

トランプ氏が大勢の支持者に向かって「コロナを恐れるな」と訴えたとき、こうした事実は見落とされていたのではないだろうか。

トランプ前大統領の治療後やっと申請が行われ、当局は許可した抗体カクテル治療薬

新型コロナ: 米FDA、トランプ氏に投与のコロナ抗体薬を緊急承認: 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66533980S0A121C2000000

 

緊急承認を受けたのは、2種類のモノクローナル抗体を組み合わせた抗体カクテル治療薬「REGN-COV2」。トランプ米大統領がコロナ感染した時に投与を受けたことで知られる。

日本ではつい先日申請がなされたばかり。

トランプ前米大統領に投与された抗体医薬品を国内承認申請 中外製薬
7/2(金) 10:57配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/4f3f1fefaa6a90519269fc95bd53174b0f260a28

 

政府や自治体は、要請への「協力金」と言い、絶対に「補償」とは言わないようにした。
「要請」は「法的拘束力を伴わないから」といいながら、結局は、自分たちが営業損害や感染による損害への穴埋めへの責任は負わない、あくまで「協力金」としたに等しい。
命令があろうがなかろうが、「要請」というのが、事業者名の公表を伴うのならば、これは、結局、「従え」という圧力なのだから、国や自治体が補償するというのが本筋である。

それはコロナが「公衆衛生上」の危険な感染症だからである。危険だから「指定感染症」として指定され、改正をして「新型インフルエンザ等感染症」として、国の対策義務は明確にされているのである。

感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律

第六条

7 この法律において「新型インフルエンザ等感染症」とは、次に掲げる感染性の疾病をいう。

三 新型コロナウイルス感染症(新たに人から人に伝染する能力を有することとなったコロナウイルスを病原体とする感染症であって、一般に国民が当該感染症に対する免疫を獲得していないことから、当該感染症の全国的かつ急速なまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるものをいう。)

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=410AC0000000114

 

 

政府の義務が明確であるならば、政府が損害に対して支出しなければならない。しかし、それを「命令ではないから法的拘束力はない」と、厳罰化に反対した野党のせいにしながら(つまりこれは屁理屈である)巧妙に国家の補償責任をうやむやにしたともいえる。
災害でもなんでも国家や自治体が指示命令権と無関係に、民間の壊れた建物などに一定の復旧のための支援費用を出している以上、コロナも不可避な自然災害に見舞われているとして、その金銭的損害や感染に国や自治体は折半して、一定の費用を払わねばならないはずだ。

新型インフルエンザ等対策特別措置法

(国、地方公共団体等の責務)
第三条 国は、新型インフルエンザ等から国民の生命及び健康を保護し、並びに新型インフルエンザ等が国民生活及び国民経済に及ぼす影響が最小となるようにするため、新型インフルエンザ等が発生したときは、自ら新型インフルエンザ等対策を的確かつ迅速に実施し、並びに地方公共団体及び指定公共機関が実施する新型インフルエンザ等対策を的確かつ迅速に支援することにより、国全体として万全の態勢を整備する責務を有する。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=424AC0000000031_20210401_503AC0000000005

国は「生命」「健康」を「保護」し「経済」「生活」に「及ぼす影響が最小となるために」「国全体として万全の態勢を整備する責務を有する」のだ。

ところが、片方で、自助努力を民間企業特に飲食店や映画館やライブハウスや風俗店に求めながら、特定の業態であるパチンコ店やライブハウスや風俗店などを知事や大臣がなっとらんと攻撃したのである。
これはまさしく分断統治である。

消費者と特定業界を争わせ、国や一部自治体が適切な対策や補償をしないという問題がうやむやにされてしまった。

(念のための追記7/6

感染対策を国や自治体が求めるとしても、その分、業者への支援や補償も十分ではないのに、社会的にバッシングしてはいけないということ)

こんなすり替えを国はしてはいけないのだ。

基本的人権の尊重)
第五条 国民の自由と権利が尊重されるべきことに鑑み、新型インフルエンザ等対策を実施する場合において、国民の自由と権利に制限が加えられるときであっても、その制限は当該新型インフルエンザ等対策を実施するため必要最小限のものでなければならない

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=424AC0000000031_20210401_503AC0000000005

また、その一方で厚生労働省や麻生副総理やデタラメな御用学者は、「検査は増やさなくてよい」とかエアロゾル感染はなかなか認めないし、無症状者もチェックしないし、果ては、維新が雨ガッパを集めたり、安倍がアベノマスクを配ったり、go toをしたり、オリンピックを執拗に開催しようとしたり、感染対策を骨抜きにするようなことをし続けたのである。

 

「アベノマスク」評価は? 全戸配布開始から1年―使用3.5%「意図伝わらず」:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2021041700410&g=soc @jijicomから

麻生財務相「マスクはいつまでやるの?」 コロナ長期化に愚痴
2021/3/19 12:04(最終更新 3/19 13:26)

https://mainichi.jp/articles/20210319/k00/00m/010/111000c

 

大阪市、あの「雨ガッパ供出」に新事実 府も約21万着調達し、倉庫に眠る20万着
2021.4/6(火) 16:01配信

週刊女性prime

https://news.yahoo.co.jp/articles/350adcfc3931316f676b7d51d6414d8975b41f09

厚労省

改訂された手引では、エアロゾルについて「密閉空間において短距離での感染を示唆する報告がある」としたが、感染流行への影響は「明らかではない」とした。(2020/09/07-17:02)

時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2020090700721&g=soc 

 

PCRが受けられない」訴えの裏で… 厚労省は抑制に奔走していた
2020年10月11日 05時53分 東京新聞

「PCR検査は誤判定がある。検査しすぎれば陰性なのに入院する人が増え、医療崩壊の危険がある」―。新型コロナウイルスの感染が拡大していた5月、厚生労働省はPCR検査拡大に否定的な内部資料を作成し、政府中枢に説明していたことが、民間団体の調査で判明した。国民が検査拡大を求め、政権が「件数を増やす」と繰り返していた時期、当の厚労省は検査抑制に奔走していた。
 厚労省の資料は「不安解消のために、希望者に広く検査を受けられるようにすべきとの主張について」と題した3ページの文書。コロナ対策で政府関係者への聞き取りをしたシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ」(船橋洋一理事長)が8日公表の報告書に載せた。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/61139

これによって、人々は、二重拘束状態に置かれた。
人々は、「危険なウィルスから身を守りなるべく会食や3密を避ける」一方「コロナなど気にせず、飲食や観光を支えよ」と、国や経済界からいわれているのである。

つまり、これは資本主義と国家が合体した人々と自然への搾取体制が抱えている必然的な矛盾なのである。

しかし、当然、命がなければ、人生も商売もあったものではない。
だから、私たちは、当然感染対策も経済補償も国に求めるのである。
いくら感染リスクを「気にするな」といわれても、多くの人が感染対策をするのは、自分と自分の周りのひとが共に生きていきたいからであって、洗脳のせいでも、根性が足りないからでもない。
それは内在的な共感と連帯の証しなのである。
新型コロナウイルスを心配する人」が悪いのではない。責任を取り、命を大切にする政治・経済システムに移行し、自然と人間の命を共に大事にするようにしない国家と資本主義の支配層に問題がある。

資本主義と国家の支配層は「民主主義と人権」を背景に権力や富を得ている以上、人々に「命を守るために、私たちはがんばります」といわなくてはならない。
ところが、そのためには、ウィルスの感染機会を断たねばならない。
検査をして、感染者を療養させ、治療し、感染者を減少させていくしかない。

 

(※2021.7.13am0……補記

日本政府はそもそも、PCR検査が増えなかったどころか、増やす必要すら認めなかった。

これは感染症の診断体制を絞って見かけの患者数を減らすためにしか思えず、実際に検査が受けられない人々が不満や怒りを爆発させた。

コロナかもしれないのに、診断も治療も受けられないのは、人々の安心や安全を奪った。

また、検査が足りないと速やかに治療に入れない人の数が増えることにもつながったのではないか。

 

原発事故でも被曝の健診や調査もあまりやらずに、安全と決めつけたように、被害を調べないという体質が日本政府にはあるように思える。)

コロナ被害を小さくするために、検査や補償などありとあらゆることをやれば、台湾やオーストラリアやニュージーランドや中国や韓国やベトナムのようになれるかもしれなかった。現にこれらの国々は検査や治療の体制を整備し、変異株台頭以前は、感染を抑えながら経済社会を動かしてきた。

しかしアジアや太平洋地域への日本国の蔑視は根深く、学ぼうとしない。学んでもなかなか取り入れない。

また、対策を頑張るのは、さんざん新自由主義で、医療体制を削減したので無理と、開きなおったようにみえる。

 

そこで、野党の度重なる要求にもかかわらず「休業補償」をやらず「協力金」にすり替え、国家は、コロナという災害で人々が感染と金銭に両方困っているときに、頑なに支援制度を拡充せず、検査も少なく、医療も逼迫しているのである。

 

おそらく、国は当然気象災害や様々な種類のパンデミックが、頻発することを想像はしているはずである。
気候変動も様々な種類のパンデミックもつまりは、森林破壊を止め、様々な生産業の脱炭素化、脱原発(原発も排水で海洋を温め、稼働時の莫大な火力電源やウラン採掘などで燃料を消費し、放射能も出す)、ドラスティックな技術革新と、小規模分散で、自治を大事にする経済に変わらないと、止まらないからである。

しかし、多くの人はまだ、トランプや麻生などの邪悪な資本主義国家支配層の口車に乗り、災害もパンデミックも目をつぶれば一時的な災害として乗りきれると考えている。

(※2021.7.10 Am1追記

一時的なものと、なめきっているからこそ、PCR検査や医療体制の拡充支援や、定期的な生活支援や休業補償が不十分なままなのである。それを無視したままワクチンだけに期待を寄せ、供給体制構築に失敗し自治体に責任をなすりつけている。挙げ句、ワクチンの検証体制も脆弱で厚労省の第三者委員会からも批判の声が上がっている。リスクとベネフィットを知るには検証と情報公開が不可欠なはずだ)

【行政評価監視委員会】「評価不能」判定を疑問視‐ワクチン副反応報告に指摘
2021年06月30日 (水)
https://www.yakuji.co.jp/entry87978.html )

 


仮にコロナ禍が収束しても気象災害とまた別のパンデミックは、繰り返される恐れがある。なぜなら、この人間社会の地球環境破壊が根底にあるからだ。

つまりパンデミックや気象災害は、資本主義の国家の現行の自然破壊や不平等を利用して金を作る仕組みが破綻しているという警告なのである。

熱帯林保護は感染症予防策


国連環境計画(UNEP)インガー・アンダーセン事務局長は今年4月、新型コロナウイルスの感染拡大について「自然をうまく管理すれば、人間の健康も維持できる」と見解を発表した。壊れやすい生態系に人間が入り込むことで、人間と野生生物の接触がかつてないほど増大していることや、野生生物の違法取引が深刻な感染症を悪化させていると説明した。新しい感染症の約75%は人畜共通感染症であり、こういった感染症から毎年約10億の事例と数百万人の死者が発生していると警鐘を鳴らしている。
https://www.gef.or.jp/globalnet202007/globalnet202007-5/

そして日本中世界中の多くの人がオリンピック開催に懸念や反対を示しているのも、みんな命が大事だと、国家の暴挙の前に、はっきりしたからである。

 

 

 

 

この1年数ヶ月ほどコロナ禍で主張してきたことの簡単なまとめのようなものとなると思います。
本当にすり減りました。気力も削られて、自分の精神状態も落ち込みました。いろんなことを考え悩みました。
皆様もコロナ禍本当にお見舞い申し上げます。
これからも、なんとかやっていきたいです。

 

PALE ALE

PALE ALE

 

 

※2021.7.6 am 0.06 複数の資料記事を補記しました。

人間の苦や困難を直視しなくなる文明はナチスや大日本帝国や地球環境破壊や無謀な東京五輪を生み出す。命の脆さ、苦しみや危険を無視し、個体性を無視した結果だーオリンピック批判の根底にある事態

 

私は自閉系の発達障がいとその生きづらさによる二次障がいである精神疾患がある。

10代の頃から、死にたいと感じたことはなんどもあったし、生きるのが辛くて、叫んだり、荒れたり、父親と取っ組み合いになったことは、何度かある。

まず、そのような場合、私自身が辛い。
そして当然周りも辛い。

次に精神障がいや発達障がいの診断があるまでは、辛いけど何が理由で辛いのかよくわからないわけで、ものすごく不安だった。
勝手に「人間失格」と決めつけて自分を責めていた。
周りからも、根性が足りないとか、できるのにやらないとか言われたこともある。

そうやって自他ともに責められていたことが、例え医学的な概念であっても、理由や説明が行われれば、対処可能になるし、社会的にも休養や支援が必要とみとめられる。

そのまま訳もわからず頑張り続け、頑張らせられて、死んだり、さらに取り返しのつかない心の傷を負うよりは、ずいぶんマシだ。

変わっているからと、バカにされたりいじめられたりの学校生活であった。
対人関係で、引っ込み思案になったり、無理に頑張ったりしてへとへとになった。
大人になっても仕事が続かず気力をなくしたり、死を考えたりしていた。
で、仕事や様々なことに挫折して、30くらいで、希死念慮が悪化した。
苦しいし、危険である。
そのため、極めて少量だが、抗精神病薬を服用して、死を考えてしまう症状を乗り切った。ほとんど反射的に死を考える状況はなかなか意志の力では止めがたいが、これがなかなか理解されない。
非常に巨大化した精神的ストレスは、私の実存を破壊しようとする。

このことが世間の理解をえられない。気力や祈りで、精神病レベルの苦痛はなかなか乗りきれない。
脳が自己破壊的な思考に支配されてしまう。
それはまさに脳の奥底から浮かんでくる恐ろしい呼び掛けである。
脳がそうなってしまうまで、我慢していたのだ。

まず、精神的に著しく疲労し、破壊された人間は、気力がすり減っている。
次に、すでに、私は生きよう生きようと祈る気持ちで生きてきた。祈る気持ちや他者の優しさを越えて、私自身を破壊しようとする心の声が心身を縛り付ける。

簡単にいえば、希死念慮は、生易しいものではない。

私は薬剤に対して感受性が高いようで、すぐに効果が出た。
もちろん副作用もあり、滑舌が悪くなったりした。辛い、そう訴えると医師は量を調節し、精神症状が改善したタイミングで、速やかに抗精神病薬の投与を終えた。
まともな医者は副作用に速やかに対応すると思った。

春には、希死念慮と不安と混乱で家から出られず、ベッドでうなっていたが、夏には、詩集の販売のため東京に出かけることもできた。(もちろんできたが、体調は不安定である)

要するに精神疾患や発達障がいにサポートが必要な理由を問われたら、感覚マイノリティーである人々は、心身に過酷な負荷を負うからだ。

それは、往々にして死や日常的な耐え難い苦痛としてあらわれる。

私たちのために、今すぐ社会が変化できるわけではない、変化には時間がかかる、私たちの心身の負荷によりただちに私たちが死なないために、痛みや苦しみを取り除く必要はゼロにはならない。
私たちが痛みを取り除くとき、引き換えにかかる肉体への負荷は必ずある。医学的な治療にはそのようなリスクもある。

実は、「メリットとデメリット」というのは、そういう極めて冷酷な論理であるが、それを知らない人は多い。

いろんな医師や処方があるから各人しっかり医師とコミュニケーションを取ってほしいし、医師もちゃんと説明すべきだ。
私を騙すような医師は私は出会わなかったが、いい加減な態度で私に臨む医師は何人かいた。
私は信頼できない人間の治療は断って、病院を出た。
私は医師に騙されたり、思いどおりにされたまま黙っている人間ではない。
病院を転院して、ちゃんと話が出きる医師だったから治療の話をできた。障がい年金の診断書も書いてもらった。
家族や周りの人にも手伝ってもらい、私は渾身の力で申し立て書を書いて、年金の申請をした。
前の医師は、障がい年金の申請は下りないといっていたが、申請は認められた。

私はその中で、治療の要不用を判断してきたのだ。

もちろん精神科医療に問題がないとは全く思えない。
極めて短い診療時間、薬だけ出す医者、話を聞かない医者、不当な拘束や患者の自由を奪う治療環境、こんなものは、ざらにある。
改善すべきことは山ほどある。

精神科医療は、社会的に差別されている収容先になっている面がある。
だからこそ、治療環境がもっとよくなり、人権が大切にされなければならない。
嫌な医師やワーカーにも私はたくさんであってきた。

私は何年も薬を服用してきた。今は多くが漢方薬に切り変わってきたが、定期的に採血し、体を労るように暮らしてきた。
もちろん、私も薬ばっかりを飲むのは嫌だから漢方やヨガをしたりしているのだ。
それでも、巨大な精神変調がいつ起きるかわからない。

だから今も薬は飲んでいる。
原発事故時やコロナ禍において、医師は動揺し、気分変化する私に付き合ってくれた。
根底にある問題に向き合わねばならないと発達障がいの診断を受けたのも社会的に苦しみや困難を軽減するためだ。

それでも、波がある、負荷や悩みがあると心身は不調になる。
原発事故もコロナ禍も日常に危険が侵入してくる。不安の強い私は苦しい。


以前の精神科治療とは違い、最近はメインの疾患には一種類の薬で対処する原則ができている。もちろん症状の強さや複数の疾患など、複数の薬を併用しなければならない場合もある。ただあまりにも多剤では、耐性がつきやすく、また副作用も大きくなる。それは多くの患者が苦しんできた歴史でもある。

精神障がいや発達障がいに対する偏見と、新型コロナウイルス放射能に対する過小評価には、似たところがあって、それは、「人間は自然体で健康に生き、様々なリスクを気にしなければ、病気にならないし、例え、困難や苦悩があっても乗り越えられる」という人間の健康に対する過信である。

人間の健康に対する過信というものがなぜ生まれるか。
その人がほとんど病気したことないからか?
そうだろうか?
精神論者だからか?
単にそれだけなんだろうか?

多くの人は社会的なストレスやリスクにさらされているはずである。
ストレスやリスクにさらされていても、政府などによる公的支援がないと、リスクやストレスを「我慢する」というふうにならざるをえない。
また、起きたことを「いちいち気にしない」という対処が身についてくる。

ここからは、私の推測であり仮説である。

それはあまりにも痛々しいのだが、そうやって「誰の力も借りられないから、自分で頑張る」という意志だったものは、追い詰められて、「こんなものは平気、負けない」に変わることがある。

自己責任論を内在した結果、非常に強い根性論にもなってしまう。

どうもそんなやせ我慢のロジックが働いているようにみえる。

一見、強く、前向きにすらみえる態度。何が問題だろうか。

最悪の末路をたどればこうなる。
「私たちは気にせずに生きようとしているのに、なぜ一部の人は苦しみを訴え、助けを求めるのか」と、正当な権利であるはずの、ケアやサポートを求める声を封じ、それらは「大したことがない」となる人がまま増えて、集団化することがありうるのだ。実際その兆候はある。

あらゆる公害や戦争や人権侵害に対し、反対し対策を求めてきた人、特に被害者やマイノリティーを襲う声である。

もちろん放射能汚染やコロナ禍は先が見えない。

しかし、それを単に大したことないと切り捨てると、「一億総玉砕」的な発想になってしまう。
オリンピックとはその具現化ではないか。

私は科学的な視点だけでこのような話をしているわけではない。
命というものは、弱い方、脆い方から大切にしないと、結局壊滅するという教訓がある。様々な世界宗教の中核にあるのは、人間は病むのが当たり前だということだ。
だから、命に対する誠実で愛に満ちた眼差しと行いがつまりは救済なのだ。
これは、宗教という枠組みを越えてある種の社会連帯の基礎ですらある。
キリストや仏陀が偉いのではない。命はそうでないと生きられないのである。ケアやサポートなしに命はつなげないのだ。

人間の苦や困難を直視しなくなる文明はナチス大日本帝国や地球環境破壊を生み出す。
苦しみや危険を無視し、個別性、個体性を無視した結果だ。

日本は実際そのような状況に向かっている。
まさにオリンピックがそうだ。

自分たちの状況を改善がなかなかできない専門家や医療者、政治家、官僚、富裕層などに対して、「真面目に仕事をしろ」「公的な義務を果たせ」というのではなく、「どうせ、専門家や政治家は当てにならない」になる。そこまではわかるのだが、次にどんどん飛躍が始まり、「すべての対策を止める」に展開する人々がいる。

逆に経済被害者や疾患者が増える方向に行きかねないのである。
そうなってしまう人が一定数いるというのは、なんと言うか、苦しい。

ここまで来ると本末転倒な事態になりかねない。それに、被害者との間に分断が起きてしまう。
被害や病気に苦しむ人を無視する言説になりかねないからだ。

また、コロナや放射能が「大丈夫」となれば、生活や経済の補償まで「必要ない」と権力はしてくるだろう。

「コロナは風邪」「放射能は平気」「精神疾患は気のせい」などは、人々の苦しみをミスリードする、そういう作用を持つ言説であると思っている。

自分の力を信じることや、健康でいることはとても大事だ。
しかし、それが奪われた人のこと、当たり前に生きられない人間の、苦しむ自然の、命の脆さについて考えてほしい。

私は精神疾患で、自殺してしまいかねないところを、医師や様々な人に支えてもらった。

苦しいときに力を借りてほしい。

コロナ禍でも放射能汚染でも貧困でも差別でも病気でも、人の助けが借りられる社会であってほしい。
苦しみを話せる社会であってほしい。
そうすれば、精神と発達の障がいをもつ私も生きやすくなれるはずだ。

患者体験には様々なものがある。様々な障がい者や病者の体験がある。
みんなもっと知ってほしい。