細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

否定せずに生きる-過去のいじめ体験からコロナ禍まで

 

私はコロナ禍において、昔いじめられて苦しんだときのことを思い出します。
「いじめられなかったら」という空想をするのも大変辛かったし、「いじめが終わったら」と考えても、生きている限り、攻撃されることはあるから、いじめの終わりを期待することにも出口はありません。

1つ足場があったとすれば、「いじめられて僕は辛い」という事実を否定せず、涙を流したり、親に話すことでした。

子どもだったし、大人しかったから戦うとかできずそれしかできなかったのでしょう。
母に話しても解決にはいたらず、いじめっ子は親の転勤でやっと近所からいなくなりました。

いじめられて辛いというのはある種の後遺症となり、いじめがなくなっても、気が遠くなったり、夢を見たり、たむろする男の子たちがずっと怖かったです。
今でもやんちゃそうな男の子たちがコンビニ前でたむろしていると、歩くのがぎこちなくなり、私はおっさんだから、向こうもこっちも関係ないのだしと考えます。

さて、これは悲しい話でしょうか?
ちがいます。トラウマに苛まれながらも、それは弱まりながら、今も生きている私がいます。
その現前を祝福するのです。

トランプ支持者は、「コロナなんてなければいいのに」という反実仮想が、信念になるまで高まり「コロナなんて屁でもない」となっています。
でも屁でもないから強いはずの彼らはとても行き詰まり暴徒化するしかありません。
なぜなら、事態がいかに嫌なものでも嫌々ながらも問題や危険を認識し考えないと、人間は成長できないし、苦しいのです。

原発事故の放射能もそうでしたが、コロナ禍も、危険をごまかさず、見据えないと、出口どころか問題の入り口にすら入れません。

また、コロナには簡単な治療法で、一網打尽とはなってないのは、今も続いていますから、コロナ禍が終わった未来になる予兆はいまだにみえません。
なるべく早く治療や予防の方法が見つかればよいし、政府にはちゃんとやってほしい。私はそう願っています。
でも、簡単には一挙解決とならない。ゆえに被害者が減るように政府が取り組むことを望んでいます。

政府や自治体は検査とか補償をしっかりやり、医療を危機にしないでほしい。

すでに危機です。
コロナは大したことない、すぐ終わると思ってしまえば、楽かというと、そうではなく、そもそも解決すべき現実を否認したら、コロナ禍を解決するきっかけすら失い、「コロナは大したことない」と念じながらコロナ禍の悪夢に閉じ込められることになります。

私はだからいじめやコロナ禍において、息詰まるような悲しい現実にため息をつきながらも、コロナを無視したい希望を抱かないことによって、なんとか正気を維持し、いつ感染して死ぬかわからない感染させてしまうかもしれない現実に慄然とする自分を感じています。

ニーチェは、「仏教は私が苦しいということを認める」と言いました。
ニーチェの仏教理解が正しいかわかりませんが、私はこの一節を昔読んで、「私が苦しいということを認める」のは、自分を治癒するための最初の一歩だと確信しました。
辛いことを認めず、打ち消す夢や希望を求めるのは実は自分を見失いかねないのです。

それはいじめは辛い苦しいと感じながら涙を流して日々を過ごしていた時代に少し似ています。
簡単にどうにもならないという悲しみを正当に感じ、力のない自分を不当に卑下しないようにしていたのかもしれません。無意識に。

そのように感じていても辛かったですが。
そして、私は、凡庸な大人になり、傷ついた人に寄り添えたり寄り添えなかったりしています。傷つけたこともあると思います。
私はつくづく大したことがない大人になったと思います。
でも、たまには人の弱音を聞けるからいいじゃないかとおもっては、様々な過ちや力不足の記憶に現実の難しさを再認識します。

私たちは現実の大きさに打ちのめされるからこそ、知恵を求め考えます。実力以上のアイデアは出ませんが助けあうことができます。
それが、凡庸な人生の唯一無二の可能性です。

だから父に「気にするな」と言われても気になるものは気にしてきました。

自閉症スペクトラムなので、気になるものやこだわりを気にしないようにしても必ず気になるので、納得行くまで考えて自分なりのつきあい方を考えるようにします。