細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

感染症法、特措法改正で望まれる方向は、コロナパンデミックの人々の暮らしや命を守るために行うべきで、コロナ禍で苦しむ人々を追い詰める罰則化のためではないーコロナ禍でもまた問われるこの国の「差別と排除」の形。

新型コロナウイルス感染症

感染症法改正による罰則化について。




入院拒否罰則「受け入れがたい」 日本医学会連合が声明
熊井洋美

2021/1/14 19:19

https://www.asahi.com/sp/articles/ASP1G6D18P1GULBJ019.html

入院を拒むのには仕事や家庭、周囲からの偏見・差別などのさまざまな理由があるかもしれず、「これらの抑止対策をせずに感染者個人に責任を負わせることは、倫理的に受け入れがたいと言わざるをえない」とする

 

特措法改正案「予防的措置」の意味不明
菅政権、責任取らずに罰則課す狙いか
2021/1/16 07:00 (JST)©株式会社全国新聞ネット


尾中 香尚里

https://this.kiji.is/722717810514690048

菅首相にとって今回の特措法改正が、決して気が進むものではないことが分かる。そもそも野党の突き上げで法改正をやらざるを得なくなったこと自体が面白くないことだろうし、法改正すれば「緊急事態宣言で不利益を受ける者への支援」について、条文に何らかの形で書き込まざるを得なくなるのは避けられないからだ。

 改正された特措法に基づき緊急事態宣言を出すことは、菅首相にとってさらにハードルが高くなるだろう。誰もが補償、いや、この言葉を使わないにしても、少なくとも「協力金」の規模に注目することになる。そんな状況は避けたいはずだ。

 そこで「予防的措置」である。緊急事態宣言を出さなくても、営業自粛要請などに従わなかった業者などに罰則を課すことができる仕組みを、法改正の中に潜り込ませておきたい。それが菅首相の狙いなのではないか。

 安倍、菅両政権の雑な運用ですっかり無力化されてしまった感があるが、緊急事態宣言とは本来「医療体制を守るために政治が責任を持ってあらゆる施策を講じる、そのために国民の私権を一部制限することになってもやむを得ない」という、政府にとって強い力を持つ切り札である。「国民の私権制限」の前に「政治の責任」がある。間違っても「外出自粛をお願いします」とお気楽に呼びかけるためだけの道具ではない。

 

まず仕事を休めず、差別を恐れて入院をためらう感染者、規模が小さく経営も厳しく受け入れをためらう医療機関、経営が厳しく給料を払えなくて休業をためらうお店などに罰則をちらつかせて命令を聞かせるべきではない。

感染者や医療機関や労働者の不安をしっかり聞いて、解決方法を見出だし、対策に対する理解を醸成する。

これがまさに常道である。

 

2021.1.18追記

また、病床が足りず自宅療養が急増している。入院拒否の刑罰を検討する以前に、入院する前に重症化したり亡くなる方がいる。国会議員の羽田氏も自宅にいて重症化して病院に着く前に意識を失い亡くなってしまった。

まずは医療機関の大規模な支援をしながら、入院できる病棟を整備しなければ、普段の診療にも影響がでてきている。

そんな時に入院拒否の罰則という案が出てくるのはなぜか、議論を尽くすべき。

(例えば入院拒否の罰則化について、「感染者がうろついたらどうする」的な煽りがありうるかもしれない。しかし一度以下のようなことを考えていただき拙速な議論を避けて欲しい。少年犯罪厳罰化や死刑廃止反対、精神科等での措置入院や拘束の拡大を肯定する議論もそのようなある種の扇情であるが、人権の側面が忘れさられてしまう。私は精神科患者だから悲しい。しかし、感染した人は、感染させるリスクもあるが、重要なのは、感染して体調を崩したり呼吸が難しくなっている人もたくさんいるのだ。そのような人々を「感染の犯人」のようなレッテルで入院をしなかったら、罰則を与えるということがあれば、そもそも医療逼迫の中で医療機関に連絡するを取るのが怖くなるひとが増えないかという懸念がある。

まずは、医療を受けても差別や社会的に不利な状況に陥らないという患者サポートを作る。また、入院中は医師の注意や助言を聞いていただかねばならないというのは、他の病気の人も同じである。その中には窮屈かも知れないが、感染予防上の注意を守る必要はでてくる。やはり罰するが先にでてくる話ではない。もし不安や怒りにかられた場合は相談に乗るということ。本当は、精神科医療もそのようであって欲しいと精神科患者の私も思うし、厳しい措置がすぐに不当な措置や差別につながったハンセン病の歴史などにも学んで欲しい)

 

それ以前に、現場でどんなことが起きていたか、政府は幅広く聞いたのか?

「本当に悪い人」だけ罰すると政府は言うだろうが、「本当に困って」いる人とどう区別するのか。

そんなことは非常に困難だ。権力が恣意を手にしたら、法の運用は解釈次第になってしまう。

 

 

実際厚生労働大臣も「基本は協力をお願いする」といい、すでに、「例外」が示唆されている。

誰もコロナで苦しみたくない、治療は受けたい、だが、様々な事情がある。日本に来たばかりで日本語が分かりにくい、様々な障害があって説明が分かりにくい、お金がなくて心配だ、治療はしたいが仕事が忙しい、感染した状況を知られたくない、いろんな事情をもつ人々のサポート制度をまず作れといいたい。

HIVや様々な感染症でも、だから患者をサポートすること、人権尊重、守秘義務を守ることが大事とされたはずである。

 

そもそも政府は、これまで自粛要請などを行ってきたが、様々な要請、指示などを聞けない理由があるはずで、それは多くが政府や自治体の支援の薄さに尽きるだろう。

つまり政府のマッチポンプではないか。

罰則化は。

そもそも支援の手薄さをちょっとマシにするから、言うことを聞けとは、コロナに感染する、命の危機が来る、コロナ禍の影響で生活の危機、貧しさがくるという、本来個人の責任を越えたものを、ひたすら基本は自己責任だ、「国策に従わないお前のせい」といっているのと同じだ。

政府の補償や対策は「お恵み」なのか。

やはりこの国は天皇制的なもの、封建的なものから抜け出てはいない。

生活保護叩きや障害者や性的マイノリティーや外国人叩きの手法と似たものを感じる。つまり、支援や補償の義務を国が持つ人々を噂やレッテルで叩いて、あたかもマイノリティーや社会経済的な弱者に「責任転嫁」し、「本人が悪いから助けなくてよい」と権力側の無責任を正当化し、罰をちらつかせ萎縮させる方法だ。

すると人々は「被差別者」への攻撃に参加したり、参加しないまでも、遠目でみて無関心となる。

みんな本当は国が怖くて、同調したり傍観している。

まさにいじめの構造だ。

いじめとは、日本の悪しき支配構造だ。

 

本当はこれまでの差別の歴史に学び、感染者を差別にあわないようにし、治療と生活を保障し、受け入れをためらう医療機関を政府、自治体は支援し、潰れそうなお店、労働者を支援する。
これがまず第一。

罰則をちらつかせたら、本当に感染抑制になるのか?

それは差別の解消を頭においた感染症法の趣旨に合っているのか?
単に困っている人を追い詰めるのではないか?
政府の支援策がまだまだ手薄で行き届いているとはいえない状況で自己責任化するというのは、政府の責任転嫁にみえる。

まず、人々は政府に対する不安、差別に対する不安が強いのではないか。

政府の支援対策が行き届いてなくて、周知されていないというのは様々なニュースで明らかなようにおもう。

長い間、人々は心配なときにいつでも検査を受けられる体制をつくっていない。

病床もあっという間に足りなくなる。

それを解決するために、特措法や感染症法の改正をするべきだ。

 

なのに、アベノマスクやGo toで一部の業界には熱心にやるのに、「自粛要請」にはわずかな「協力金」で、失業倒産の危機が来た。

10万円定額給付金は、日本でのコロナ禍がニュースになってから約一年、一回しかない。

 

日本の感染対策が「慣れ」や「疲れ」に陥ったのは、政府の支援が一貫して手薄だったからだ。

原発事故の放射能対策も一貫して政府は緩和の、つまりは野放しにする範囲を広げてきた。そして、人々は原発事故をおもわなくなってしまった。

オリンピックがコロナ禍と原発事故両方からの「復興」を狙ったのは偶然ではない。

オリンピックまでに、原発避難者への支援は打ち切られ、汚染水の海洋放出や汚染土の再利用の計画が進められてきた。

汚染水や汚染土の計画は強い反対で政府の思うようには進んではいない。しかし、危機は去っていない。

じゃあコロナ禍からの「復興」と政府は浅知恵を編み出したが、コロナは牙を向き、コントロールできない。

コロナをコントロールできないなら、人間のコントロールであり、始めたのがいつもの、人々の分断と、人々の棄民と、そして、伝家の宝刀「お上にたてつくな」の罰則化である。

 

国の義務が果たされていないというのが、今回の問題で、それは原発事故、公害病原爆症、アジアの人々への戦後補償も同じだ。

 

本当の特措法や感染症法の改正の目標は、政府が大規模な検査、医療病床のパンデミック下の安定供給のための医療全体への支援、整備調整、人々が失業や生活破綻に陥らないための生活保障の確立だ。

新型インフルエンザ等感染症」に指定する予定なのだから、幅広い範囲の対策ができる。

 

この間、政府は初手から検査抑制に走った。すでに中国や韓国がパンデミックに対して本格的な検査の拡充で、感染を封じ込めつつあった時にそれだった。

4月には医療病床が足りないといわれた。

その後安倍内閣はなんと虫やゴミさえ入っていて洗うとものすごく縮み、さらに感染防御効果が十分ではない「アベノマスク」でお茶を濁して、大金を業者に支払った。

秋冬に「感染のまん延が起きる」といわれてその逆の「Go to」をいくら嫌がられてもしつこく止めようとしなかった。

 

法改正による罰則化、生活保護政策とも似ている。
極めて数が少ない悪質な不正受給をあげつらって、生活保護抑制を図るのは変で、困っている人幅広く支給する努力が先、ではないか。

つまり、いじめや叩きで矛先を作り、政府は批判や人々を守り、助ける義務から逃げるのだ。

すでに政府自治体の「夜の街」叩きの不毛さで明らかだっただろう。

新型コロナウイルスは、朝だろうが昼だろうが夜だろうが感染する。

「夜の街」を補償対象から外そうとして、多くの夜間飲食店は怒りが爆発した。

 

本当はパンデミックの長期化にしたがって、人々が少しでも安心安全な領域を守り、地球災害に対応した対策や環境政策にすべきなのである。

巨大なパンデミックでは、みんな苦しい。

それを「金は出さないから我慢しろ」「お恵みとして金は出してやる。言うことを聞かないなら罰則だ」では長続きしないだけではなく、警察国家化する。

警察国家化し、感染者の差別で、感染が潜在化し、見た目の数字だけは、被害が少ないが、死者や後遺症者が多発する恐ろしい国になりかねない。

すでに、検査が感染規模にマッチングしていないので、この危惧は半ば現実化している。

それは戦後も、原発、公害、アジアの戦争被害などで、日本政府が繰り返してきた。

事態の矮小化と、差別と、人々の分断で、戦前から戦後一貫した日本国の「統治と排除の技術」である。

コロナ禍で、問われるものは、またも、「排除と差別」で命を追い詰めるこの国の形だ。