大阪市廃止住民投票の手前で。
いま大阪市廃止阻止のためスクランブル的にしばらく休んでいたTwitterにも投稿していますが、またそのうち休むかもしれません。
コロナ禍や心身の不安定とかもありますし、しかし、それより以前にTwitterでの発信にいまいち自信がなくなっています。悪質な人がたくさんいるだけでなく、頻繁に論争が起き、自分が踏ん張っていく力の足りなさ、自分の中の動揺があると思います。
また、市民運動にも、片頭痛などでなかなか参加がしんどくなってきました。
この間疲れた心身を良くしたりをしなきゃなとかもあります。
あらためて自分が障がい者だということを再認識したり。
無理はできないなとか。
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コロナ禍や心身の不安定でさえない日々が続きましたが、大阪市廃止反対の街頭宣伝に先週と今週少し参加しました。31日は久々に片頭痛気味で、投票日前の街頭宣伝には参加できませんでした。
大阪市民は「だまされてる」面もあるけれど、疲れて何も考えたくない人が増えてる。それは日本全体もアメリカもそうです。
本当は資本主義や国家がこのままでは限界だというのが、環境的にも社会的にも明らかです。
しかし、それを考えるとシステムの根本的な変革しなければなりません。
そうするとこれまで出来上がった観念とかイメージも本当は成り立たなくなります。
ついつい「世の中には何の問題もない」というトランプ、自民党、天皇制的な「問題がないから問題を指摘する側が敵」という心理的なまゆを作ってしまう。
すると、「火のないところに煙をたて」大阪市を潰せば全てよくなるとか朝日や毎日を叩き潰せとか、野宿者や生活保護需給者や障がい者やジェンダーマイノリティーを叩けとか、まさにファシズムになってしまいます。
私だって「大丈夫」と思いたいときはあるが、問題があるのに、ないと嘘を信じたくはありません。
問題を多角的に分析することができなくなり、攻撃への依存が始まるのはだめです。
フェイクや「真実の敵を他所につくる式の」陰謀論は願い下げです。
私は精神疾患になって、古い執着や観念が自分を苦しめたり、未来が怖かったり、引き裂かれるような思いをしていた時期がありましたが、それは、私が危機にあり変化していく途上だったのでしょう。
人間全体がいまそのような状態ではないかと。
誠実に悩むのが本当ですが、多様性が言われている反面とにかくマイノリティーを攻撃する人が多すぎます。
煽動するのはたやすい。
原発事故や新型コロナウイルス禍やグレタ・トゥンベリや世界の若者の温暖化への警鐘は、人間社会が今のままでは地球環境的な安全がもはやあらゆる場面で保つことができないという真実を開示しています。
人間の責任です。
これをスピリチュアル的にアセンションという人もいるでしょうが
当たり前の言葉でも語れるので、私はその言葉は使いません。
人びとには、本当は「考えたくない」を生み出した自分の「傷」がなんなのかを知ってほしいと私は思います。
私は少し変わった子どもとして生まれて様々な葛藤をしてきたからだと思います。
自分の問題をしれば、社会の問題との切り分けや関連性を考えることができます。
大阪の人間全体が町の衰退に苦しんできました。
それを高度成長再びみたいな理念や「マイノリティーは努力不足」というネオリベ優生思想でごまかしてしまいました。
そんな暴力で街を破壊してはいけません。
日本全体の政治のおかしさに向き合わなくては。
そして辛い暮らしの中で見ないようにしてきた心の傷に向き合わねば。
大阪市廃止、私は反対多数を望みますが、仮に賛成多数となってさえ、ここに書いたことは重要であることはかわりないと思います。