細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

原発事故やコロナ禍では、社会の自己責任化や閉ざされた思考枠組み(差別、偏見、安易なリスク思考)によって、様々な被害を受けた人々が被害を我慢させられ、社会的にも被害が認められ難くなりますー10年目の311を考える②

 

今日起きている災害の大半は複合災害となります。
原発事故被害地域や津波被災地域で、気候変動や巨大台風などに由来した豪雨災害が起きて、様々な被害が起きるということや熊本震災や原発事故地域、津波被災地域で、豪雨災害が起き、さらにコロナ禍となれば、何重もの困難が被災者を襲うことになります。

関東東北の原発や震災の被害地域で豪雨災害が起きたことは、ご記憶の方も多いと思います。

また全国の震災、豪雨災害地域もいまだ復旧復興の途上で、さらにコロナ禍の被害も重なっているわけです。

 

さらにそれに加えて、その方が高齢者、障害者、外国人、性的なマイノリティー、貧困な女性、貧困で孤立した様々な人々などなどであったり、あるいはいくつかの属性にあてはまるインターセクショナリティであるならば、さらに様々な避難や生活上の困難は増します。

普段から孤立したり、差別されている人々が大災害で、国家主義が高まり、「一致団結」から外されたり、避難所や避難する道などで不利益を受けるということは以前から指摘されてきたことです。

つまり、災害やその人のマイナー性といったものは、互いに足し算されていくもの。

しかしこの点を勘違いして、様々な災害のどちらが軽いかを比べる思考法があります。
災害は引き算にはなりません。

「新型コロナはただの風邪」などは、事実としても間違っていますが、その「困難を軽視する」ことは、「困難が軽くなる」のではありません。
それは「困難を見えなくして」困難に人間が対処することを妨げかねません。

原発事故と車の事故」を比べて、「原発」を正当化するロジックも同じ感じがします。
自分が車を所有して、事故を起こすということ、飛行機事故、災害、原発事故などの危険はそれぞれ理由や本人に責任があるかなどからして、まったく違うものです。

普通、責任や過失の割合が問われて、保険や裁判の適用があります。
ところが原発事故やコロナ禍では「被曝は怖がらなくてよいのに勝手に逃げた」とか「防御が足りずに感染したのは自己責任」と言われてしまいます。
このような自己責任思考と、原発事故やコロナ禍に対して政府が杜撰な対応をしているのには関係があると思います。
起きた出来事に関心がない人や「自分のことしか考えない」人が、他者の被害に鈍感になり、政府の無策などを合理化し、自分のみが心理的安全や「自分はお上から守ってもらえるはず」という気分になるだけです。
実際は誰も政府や自治体から助けてもらえなくなります。そんなことをしていては。

それはさらに関東大震災の時に朝鮮人に対するデマを流して虐殺することの親和性もあります。

「お上の責任を問わない思考法」が原発事故やコロナ禍で猛威をふるっているということです。
対策が間違ったり、不足していたら、それは行政や政治、大企業が気づいていないか、怠っている恐れがあるわけですから。

人は津波から避難したが被曝した人がたくさんいます。
その中には家族を津波で亡くした人もたくさんいます。
まさに泣きっ面に蜂以上の出来事です。

震災や原発事故で外国語の情報がなく、事態がわからないまま苦しんだ外国人の方がいます。

原発事故で県外に避難しようとしてたらい回しにされた障害者がいます。


コロナ禍でも、様々なマイノリティーが苦しんでいます。

精神障害者は、コロナなどによる一般病院への転院がなかなかできません。
入管収容者は、コロナのリスクにさらされてもなかなか仮放免や処遇改善がなされません。

原発事故やコロナ禍を甘くみるということは、マイノリティーの被害リスクを放置する社会体制を強化しかねません。

コロナと他の災害、その人のマイナー属性への差別が複合的な社会的困難が起きるということも、理解しているとは思えません。

また、感染症対策と生活補償を同時にやらないと対策が成り立たないことも理解されていません。
だから、マイノリティーやエッセンシャルワーカーや失業者が、感染のリスクと生活困難が同時に起きていることに気づかない人がたくさんいます。
だから「命と経済の対立」の枠組みでは捉えられないものばかりです。

コロナに感染して失業した人や、失業してさらにコロナに感染した人もいるはずです。

原発事故やコロナ禍では、社会の自己責任化や閉ざされた思考枠組み(差別、偏見、安易なリスク思考)によって、様々な被害を受けた人々が被害を認識できなくなり、社会的にも被害が認められなくなります。

このような上に書いたような社会の危険なあり方に思いをいたさなければ、震災と原発事故の風化は防げないと思います。
原発事故、津波災害、豪雨災害、コロナ禍で問われているのは自然ではなく、日本社会と今日の文明の間違ったあり方です。