細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

人間の苦や困難を直視しなくなる文明はナチスや大日本帝国や地球環境破壊や無謀な東京五輪を生み出す。命の脆さ、苦しみや危険を無視し、個体性を無視した結果だーオリンピック批判の根底にある事態

 

私は自閉系の発達障がいとその生きづらさによる二次障がいである精神疾患がある。

10代の頃から、死にたいと感じたことはなんどもあったし、生きるのが辛くて、叫んだり、荒れたり、父親と取っ組み合いになったことは、何度かある。

まず、そのような場合、私自身が辛い。
そして当然周りも辛い。

次に精神障がいや発達障がいの診断があるまでは、辛いけど何が理由で辛いのかよくわからないわけで、ものすごく不安だった。
勝手に「人間失格」と決めつけて自分を責めていた。
周りからも、根性が足りないとか、できるのにやらないとか言われたこともある。

そうやって自他ともに責められていたことが、例え医学的な概念であっても、理由や説明が行われれば、対処可能になるし、社会的にも休養や支援が必要とみとめられる。

そのまま訳もわからず頑張り続け、頑張らせられて、死んだり、さらに取り返しのつかない心の傷を負うよりは、ずいぶんマシだ。

変わっているからと、バカにされたりいじめられたりの学校生活であった。
対人関係で、引っ込み思案になったり、無理に頑張ったりしてへとへとになった。
大人になっても仕事が続かず気力をなくしたり、死を考えたりしていた。
で、仕事や様々なことに挫折して、30くらいで、希死念慮が悪化した。
苦しいし、危険である。
そのため、極めて少量だが、抗精神病薬を服用して、死を考えてしまう症状を乗り切った。ほとんど反射的に死を考える状況はなかなか意志の力では止めがたいが、これがなかなか理解されない。
非常に巨大化した精神的ストレスは、私の実存を破壊しようとする。

このことが世間の理解をえられない。気力や祈りで、精神病レベルの苦痛はなかなか乗りきれない。
脳が自己破壊的な思考に支配されてしまう。
それはまさに脳の奥底から浮かんでくる恐ろしい呼び掛けである。
脳がそうなってしまうまで、我慢していたのだ。

まず、精神的に著しく疲労し、破壊された人間は、気力がすり減っている。
次に、すでに、私は生きよう生きようと祈る気持ちで生きてきた。祈る気持ちや他者の優しさを越えて、私自身を破壊しようとする心の声が心身を縛り付ける。

簡単にいえば、希死念慮は、生易しいものではない。

私は薬剤に対して感受性が高いようで、すぐに効果が出た。
もちろん副作用もあり、滑舌が悪くなったりした。辛い、そう訴えると医師は量を調節し、精神症状が改善したタイミングで、速やかに抗精神病薬の投与を終えた。
まともな医者は副作用に速やかに対応すると思った。

春には、希死念慮と不安と混乱で家から出られず、ベッドでうなっていたが、夏には、詩集の販売のため東京に出かけることもできた。(もちろんできたが、体調は不安定である)

要するに精神疾患や発達障がいにサポートが必要な理由を問われたら、感覚マイノリティーである人々は、心身に過酷な負荷を負うからだ。

それは、往々にして死や日常的な耐え難い苦痛としてあらわれる。

私たちのために、今すぐ社会が変化できるわけではない、変化には時間がかかる、私たちの心身の負荷によりただちに私たちが死なないために、痛みや苦しみを取り除く必要はゼロにはならない。
私たちが痛みを取り除くとき、引き換えにかかる肉体への負荷は必ずある。医学的な治療にはそのようなリスクもある。

実は、「メリットとデメリット」というのは、そういう極めて冷酷な論理であるが、それを知らない人は多い。

いろんな医師や処方があるから各人しっかり医師とコミュニケーションを取ってほしいし、医師もちゃんと説明すべきだ。
私を騙すような医師は私は出会わなかったが、いい加減な態度で私に臨む医師は何人かいた。
私は信頼できない人間の治療は断って、病院を出た。
私は医師に騙されたり、思いどおりにされたまま黙っている人間ではない。
病院を転院して、ちゃんと話が出きる医師だったから治療の話をできた。障がい年金の診断書も書いてもらった。
家族や周りの人にも手伝ってもらい、私は渾身の力で申し立て書を書いて、年金の申請をした。
前の医師は、障がい年金の申請は下りないといっていたが、申請は認められた。

私はその中で、治療の要不用を判断してきたのだ。

もちろん精神科医療に問題がないとは全く思えない。
極めて短い診療時間、薬だけ出す医者、話を聞かない医者、不当な拘束や患者の自由を奪う治療環境、こんなものは、ざらにある。
改善すべきことは山ほどある。

精神科医療は、社会的に差別されている収容先になっている面がある。
だからこそ、治療環境がもっとよくなり、人権が大切にされなければならない。
嫌な医師やワーカーにも私はたくさんであってきた。

私は何年も薬を服用してきた。今は多くが漢方薬に切り変わってきたが、定期的に採血し、体を労るように暮らしてきた。
もちろん、私も薬ばっかりを飲むのは嫌だから漢方やヨガをしたりしているのだ。
それでも、巨大な精神変調がいつ起きるかわからない。

だから今も薬は飲んでいる。
原発事故時やコロナ禍において、医師は動揺し、気分変化する私に付き合ってくれた。
根底にある問題に向き合わねばならないと発達障がいの診断を受けたのも社会的に苦しみや困難を軽減するためだ。

それでも、波がある、負荷や悩みがあると心身は不調になる。
原発事故もコロナ禍も日常に危険が侵入してくる。不安の強い私は苦しい。


以前の精神科治療とは違い、最近はメインの疾患には一種類の薬で対処する原則ができている。もちろん症状の強さや複数の疾患など、複数の薬を併用しなければならない場合もある。ただあまりにも多剤では、耐性がつきやすく、また副作用も大きくなる。それは多くの患者が苦しんできた歴史でもある。

精神障がいや発達障がいに対する偏見と、新型コロナウイルス放射能に対する過小評価には、似たところがあって、それは、「人間は自然体で健康に生き、様々なリスクを気にしなければ、病気にならないし、例え、困難や苦悩があっても乗り越えられる」という人間の健康に対する過信である。

人間の健康に対する過信というものがなぜ生まれるか。
その人がほとんど病気したことないからか?
そうだろうか?
精神論者だからか?
単にそれだけなんだろうか?

多くの人は社会的なストレスやリスクにさらされているはずである。
ストレスやリスクにさらされていても、政府などによる公的支援がないと、リスクやストレスを「我慢する」というふうにならざるをえない。
また、起きたことを「いちいち気にしない」という対処が身についてくる。

ここからは、私の推測であり仮説である。

それはあまりにも痛々しいのだが、そうやって「誰の力も借りられないから、自分で頑張る」という意志だったものは、追い詰められて、「こんなものは平気、負けない」に変わることがある。

自己責任論を内在した結果、非常に強い根性論にもなってしまう。

どうもそんなやせ我慢のロジックが働いているようにみえる。

一見、強く、前向きにすらみえる態度。何が問題だろうか。

最悪の末路をたどればこうなる。
「私たちは気にせずに生きようとしているのに、なぜ一部の人は苦しみを訴え、助けを求めるのか」と、正当な権利であるはずの、ケアやサポートを求める声を封じ、それらは「大したことがない」となる人がまま増えて、集団化することがありうるのだ。実際その兆候はある。

あらゆる公害や戦争や人権侵害に対し、反対し対策を求めてきた人、特に被害者やマイノリティーを襲う声である。

もちろん放射能汚染やコロナ禍は先が見えない。

しかし、それを単に大したことないと切り捨てると、「一億総玉砕」的な発想になってしまう。
オリンピックとはその具現化ではないか。

私は科学的な視点だけでこのような話をしているわけではない。
命というものは、弱い方、脆い方から大切にしないと、結局壊滅するという教訓がある。様々な世界宗教の中核にあるのは、人間は病むのが当たり前だということだ。
だから、命に対する誠実で愛に満ちた眼差しと行いがつまりは救済なのだ。
これは、宗教という枠組みを越えてある種の社会連帯の基礎ですらある。
キリストや仏陀が偉いのではない。命はそうでないと生きられないのである。ケアやサポートなしに命はつなげないのだ。

人間の苦や困難を直視しなくなる文明はナチス大日本帝国や地球環境破壊を生み出す。
苦しみや危険を無視し、個別性、個体性を無視した結果だ。

日本は実際そのような状況に向かっている。
まさにオリンピックがそうだ。

自分たちの状況を改善がなかなかできない専門家や医療者、政治家、官僚、富裕層などに対して、「真面目に仕事をしろ」「公的な義務を果たせ」というのではなく、「どうせ、専門家や政治家は当てにならない」になる。そこまではわかるのだが、次にどんどん飛躍が始まり、「すべての対策を止める」に展開する人々がいる。

逆に経済被害者や疾患者が増える方向に行きかねないのである。
そうなってしまう人が一定数いるというのは、なんと言うか、苦しい。

ここまで来ると本末転倒な事態になりかねない。それに、被害者との間に分断が起きてしまう。
被害や病気に苦しむ人を無視する言説になりかねないからだ。

また、コロナや放射能が「大丈夫」となれば、生活や経済の補償まで「必要ない」と権力はしてくるだろう。

「コロナは風邪」「放射能は平気」「精神疾患は気のせい」などは、人々の苦しみをミスリードする、そういう作用を持つ言説であると思っている。

自分の力を信じることや、健康でいることはとても大事だ。
しかし、それが奪われた人のこと、当たり前に生きられない人間の、苦しむ自然の、命の脆さについて考えてほしい。

私は精神疾患で、自殺してしまいかねないところを、医師や様々な人に支えてもらった。

苦しいときに力を借りてほしい。

コロナ禍でも放射能汚染でも貧困でも差別でも病気でも、人の助けが借りられる社会であってほしい。
苦しみを話せる社会であってほしい。
そうすれば、精神と発達の障がいをもつ私も生きやすくなれるはずだ。

患者体験には様々なものがある。様々な障がい者や病者の体験がある。
みんなもっと知ってほしい。