細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

無職の障がい者がメーデーに思うことー新型コロナ禍と生老病死の意味

 

今日はメーデー
雨や風が強いです。

宮城県沖、大きな地震でしたね。
思わぬところで、地盤やコンクリートが痛んでいるかもしれません。天気も荒れ気味。ご注意ください。

さて、メーデーです。

私は無職で労働者ではないのです。
だから、ちょっと引け目はあるんです。
けれども、生きづらくて気持ちが不安定な人間にとって、生きること自体が「労苦」ではあります。
私は自閉症スペクトラムと、子どもから大人になるまで学校や仕事でうまくいかず、二次障がいとして強い不安などの症状をもっています。

しんどくて心がぐらついてますと、自己肯定が減ったりします。すると、人に頼りがちになったり、ほうっておいてくれとなったりの落差が激しいです。
これは苦しいです。正直周りのひとは、もっと大変だと思ってます。
罪悪感を持たなくてもいいのに持っちゃって、余計に行動や言動がおかしくなります。
気分が変わりやすく、やることも長続きしません。
一時はというか多くの場合に、自分のことダメだなあと思うから疲れます。実際過去を振り返るとめちゃくちゃだなと思うときはたくさんあり、振り返るのは辛いです。
程度の差こそあれ、みんなそうだと思うのですが、小さい頃から、ホンマに不安定です。

けして道徳的に「清く正しく」ばかりで生きてこれたわけではありません。情けない気持ちや恥ずかしい気持ち、罪悪感もあります。
しかし、生きてきたことの重みや学びも感じています。

だからまあ「人並みに働く」というのは、今は目指してません。
世の中のペースになかなか合わせられないですから。

コロナ禍でわかったことは、むしろ、なんでこんなに「経済」と「命」が分離して語られてしまうのか。

AIってのが出てきていても、基本は、人間や自然の動植物、環境が経済社会の根幹です。
自然生態系の動物にくっついていたウィルスが人間の自然破壊によって、人間社会に運ばれてきて、大惨事が起きてるのです。
ウィルスを命と呼ぶのか、非生物なのか、その中間くらいと思いますが、ウィルス自体は自分で複製、繁殖はできない。宿主の細胞を借りて自分を増やす。
ウィルスは、おそらく、これまで宿主としていた動物の世界では、静かに暮らしていたんだろう。
それが、人間の生命体というものに遭遇し適応の仕方がわからない。
だから攻撃というか、噛みついて暴れまわって自分をなんとか増やそうとしている。

ちょっと話を戻しますが、メーデー、労働ってことでつなげます。
コロナ禍で、身に沁みて感じるのは、環境的な安心や人間が老病死の不安に絶えず煩わされていたら、本当は経済なんてできないのです。
日常の経済は本当は、多くのメンバーが元気で、病気や老いた人、障がいのあるひとを助けている、そして病人や老いた人も苦しみのなかで、人間が生きるということは「大変な労苦」なのだと身をもって示しているのだということです。
つまりこの意味では価値とかに格差があるわけではありません。

それがいつのまにか誤った経済的思考ー優生思想によって、老病死という命の当然の経過が「コスト」と見なされているのが異常なのです。
これは私たちの命の意味が事実上半分以下に切り捨てられているというとんでもないことを示しています。

もちろん病気やケガの治療に一定のお金はかかります。しかしそれがあることで、働いているひとは、いざというときも大丈夫という安心を手に入れてきたわけです。
しかし、どうですか。
不安定な雇用環境や福祉の破壊や医療の削減に私たちは適応されてきて、維新や自民党の安心のない政治の方がカッコいいかのような破滅的な幻想に足を囚われています。

その結果が今日のコロナ禍の医療崩壊です。
私たちは、生老病死という当然の前提を受け入れ、経済の根底にある命を守る仕組みが必要です。
コロナについては、「withコロナ」なんて話をする人もいますが、コロナウィルスは、馴れない人間界で変異し、暴走しています。
コロナが私たちに牙を剥かないように、といってもコロナとは話し合いができません。私たちができる防御をするしかありません。
私たちはまず健康を維持するための医療社会保障制度を再建する、そして自然を破壊しないようにする、そうしてコロナが弱毒化するまでは、人が死なないように検査や治療や予防と、それに必要な補償をやって行く必要があります。

コロナも深刻で雨風もあるため、自宅で、綴っています。

深刻な医療崩壊もわずかでも状況が改善されたらと祈るような気持ちですが、この状況で政府がオリンピックにしか目がないのが、本当に腹が立っています。
大阪府の幹部は医療崩壊の中で、患者特に高齢者の命の切り捨てを進めるかのようなメールを流しました。これは撤回されましたが吉村知事が「トリアージ」発言を以前しましたが、吉村知事らは、いざとなれば、「命の選別」をするので、医療体制を充実させなかったのではないかと、疑惑の念を深めざるを得ません。

あまりにもひどい。

またそのような事態が「憲法改正」で防げるように思えません。

「緊急事態条項」の憲法改正により、独裁が起きる危険、戦争につながる危険すら指摘されているからです。

パフォーマンスではなく、地道な検査による感染規模の拡大の防止や、行政が医療機関や現場の課題をきちんと理解し、医療体制を普段から整備しておくということがパンデミック防止には必要です。

これは、現行法を活用し、より人権や医療環境整備に配慮した修正したりしながら、必ず実現できます。

実際、和歌山県知事、鳥取県知事、山梨県知事などは既存の感染症法や新型インフルエンザ特措法を活用し、感染拡大の防止を行い成果をあげています。

 

憲法改正で目指される「緊急事態条項」は、各分野の法律にある「緊急事態宣言」とまったく違い、国会も選挙も停止して、政府が独裁するものです。

ナチスが利用して破局的な戦争に至ったものです。

コロナ禍での「緊急事態宣言」とまったく違い、政府が非常時に、独裁をして、単なる自粛や休業よりももっとひどいものです。

騙されないでください。

【詩作品】起きろ!

 

私は金環食のように
真ん中の影に
満たされない気持ちを
隠しながら
あるいていた

影というのはとても
都合がよく
ひんやりしている
あまりにも
透き通り
濃密な
そのなかに
翼を持つ生き物や
かさかさと
歩き回る
虫を隠しながら
なんだか
落ち着いた気持ちになる

私を受け止めて
いただきたいと
思って
って
だから
えっと
苦しくて
光が激しく燃えていて
私が支離滅裂に
気持ちがまとまらなくて
変異して
その場かぎりのエネルギーを
放射してるだけで

ただ思い付きのように
死の不安がさしこんでいる
そういえば
コロナとかの前から
駅の動く歩道を歩きながら
君と話していると
カシャカシャと
不安定に機械が
止まる音が
僕は唐突に
電池が切れてしまうん
じゃないかと

電池が切れた瞬間に
向こう側が失くなってね
私は
厚みと
質量を失うんじゃないかと

波のしぶき
寒い浜
流木
濡れた靴

南無
旅行に行く気持ちが
コロナの前からあまりなかった
もう人混みを歩くのが
辛かった
頭が激しく痛いから

命と物質を
きらきら
ほこりが舞う世界を
競りだした太陽が
切り裂き
分裂し
焼き付くし
異なるものへ変えていく

ほとんど感じられない
真っ暗な宇宙みたいな
そんな世界で
人がからだの中の火に
焼き付くされ

緑と、紺碧の地球を
厚みも質量も失って
眺めている
そんなイメージが
ずっと前から

起きろ!

【詩作品】ひとり歌うしかなかったように

 

生まれたところからあと3センチ
歩いてみてください
ベルを鳴らして
華麗に響きあってください
あなたには見えないもの
聞こえないものが
かすかに
感じられるはずなんですから

そうして

後悔してください
悪を見抜けなかったこと

生きているから
罪があり
なお罪を晴らせるのも
生きているからだと
それは
誰責めることない
真実
胸に刻んで

 

高い空の
透明な宮殿
草がなびく
空き地のようなところ

僕はなぜあんなに
夢の中で懇願していたのか
あなたの
呼吸が途切れないように
誰もあなたを
助けることができない
この限界の世界で

ただお茶を飲みながら
静まりかえって
自らを
守ることしか
なかったように

救いの手になれない
私の手さえ
世界を
次の瞬間に送っていく
新しい
笛を吹いて
慰めを
ひとり歌うしかなかったように

福島第一原発汚染水海洋放出の反対と陸上保管を提起する意見を首相官邸サイトに送付しました。

2015年8月東京電力と日本政府は「関係者の理解なしにはいかなる処分も行わない」と福島県漁連に回答しています。
全漁連自体が反対していること、それは本年菅総理と全漁連会長との会談でも変わっていません。
「関係者の理解」などありません。
福島県内だけでなく、全国的にも、反対の声があります。海外政府も懸念や反対をしています。韓国、中国、ロシア、カナダ、チリなどが、ロンドン条約会議などで、日本は、国際社会と議論すべきとしています。環太平洋国として当然の考えです。太平洋全体の海洋資源、環境への影響が考えられます。無視しないでいただきたい。強行すればオリンピックを前にさらに国際世論は日本に厳しいものになります。
数十年かけて、薄めた汚染水を流すというのは、地球環境破壊を食い止めねばならない現状に著しく反します。
福島県以外から出したらよいなどの俗論もありますがどこから出しても太平洋に放射性物質が流れます。
どこからも放出しないでください。
福島第一原発汚染水の海洋放出をせず、複数の報道で第一原発敷地には、タンクを保管できる場所が存在します。(河北新報、木野竜逸氏等の報道)ただちに、タンクを増設してください。いうまでもないことですが、タンクはきちんと地面に固定してください。
また、無理な廃炉計画のスピードだと思われます。チェルノブイリは500年廃炉にかかるといっています。特に現在、格納容器内の把握さえ高放射線量で困難です。ましてや、短期間で燃料の取り出しは無理です。
ですから燃料のとりだしを延期し、地元への賠償や支援を延長してください。
その代わりにタンクを増設してください。
また、建屋の耐震性を向上させてください。

汚染水が増える原因は建屋に地下水や雨水が流入することによるものです。
建屋の周囲を遮水を強化してください。

これまで、東京電力は、2018年の公聴会前にも7割のタンクでトリチウム以外の長寿命放射性物質が除去しきれていないことを隠していました。トリチウムだけでなく多くの核種が取れていないのですから事故前の基準すら満たしていません。ゆえに海洋放出など安全なはずがありません。「風評被害」のみならず、トリチウムやそれ以外の放射能の生物影響を真面目に考えてください。
国際社会に汚染物質除去技術を助けてもらうべきです。

公聴会でも、反対が多数であり、汚染水海洋放出について、この3年間先延ばしただけで、市民や漁業関係者、環太平洋沿岸国韓国、中国、ロシアなど再三、反対や懸念をしてきた国々を無視しています。
大変な禍根を残します。海洋放出をやめ、陸上保管を実行すべきです。

 

首相官邸ご意見・ご感想

https://www.kantei.go.jp/jp/iken.html

日本社会の公助破壊と自己責任化によって、感染症対策や福祉的再分配は破壊され、オリンピックの炎が虚しく輝く構造的な大津波に抗うために

日本社会と日本政府は、感染症の危険とか公的医療福祉インフラの必要など無視して、「医療や福祉に頼らず勝手に野垂れ死にすることが理想」とか「ピンピンころり」とかの、つまりは「生活保護に頼るな」「心身が弱いひとは勝手に孤独死」せよと言わんばかりの政治をずっとやってきた。

病も障害も「心がけ」「自己責任」のせいにされてきた。

「介護予防」の名のもとに、病気などになったら必要なはずの高齢者介護は「頼るべきでない」とされてしまっている感さえある。

いつのまにか、障害者が支援サービスを求めることが相模原事件を引き起こした元介護者の考えに見られるように、「社会の負担だから」と切り捨てられようとしている。

相模原事件や京都のASL患者の嘱託殺人においては、加害者に対する共感さえ寄せられ、「支援を必要とするひとを社会的に排除」することが、本人にとっても「善」であるようにすり替えられてしまう。

他方、パラリンピック24時間テレビでは、「前向きで努力する」障害者の感動物語が「善意の人々」によって消費されている。

「善意の人々」は誰を苦しめているかわからないまま、「前向きな明日」に向かって、「感動」を消費する。駅伝や甲子園やスポーツ番組で「前向きさ」と「感動」をインストールされている。

社会や政府に怒りや悲しみを知らせるのではなく、「なるべくひとに頼らずがんばる」が美徳とされる。

しんどい人々すべてがプレッシャーを感じている。

「頑張ってぼろぼろになったのに、まだ頑張らねば認めてくれないのか?」と。

私はずっとそう感じてきた。

「頑張らなくていい」「結果や能力ではない」ということで、公的支援が差しのべられなければならないが、逆だ。

「ちゃんと仕事を探したか?」「持てるものすべてを使いきらないと」とさらに追い詰められ、厳格な審査が行く手を阻む。

これがファシズムや優生思想ではなくなんなのだろうか?


いじめやハラスメントを放置して、生きづらい人を追い詰めた。

自己啓発や健康法だけで生き抜くなど不可能なはずなのに、せっせと感動物語や意識変革と美容と健康法が推進され、それに人は乗っからざるをえなくなり、公的な医療と福祉は骨抜きにされたのではないか。
公共はしっかりやらないから、勝手に「ぽつんと田舎暮らし」して、ぼろぼろのインフラでやってくれということをおしゃれ風に言われても健康なひとしか暮らせない。

「ぽつんと田舎暮らし」も体調を崩した高齢者は山を降りている。
都市の暮らしには問題があり、自然を求めるのは間違っていない。
しかし、人々は、公的な医療や福祉、インフラを自ら放棄するように、促されていたのではないか。

地方であってもどこでも暮らしが保障される仕組みがないから原発や環境汚染のリスクがある仕組みを地方が引き受けさせられ、依存する構造にはめ込まれてきたのではないか。
都市や衛星都市にも十分な福祉があるわけではないから、孤独死や虐待が積み重なっていく。
それも、特殊清掃会社や精神科やカウンセリングや児童相談所に、お任せで、保健師やヘルパーが増えるわけではない。
そこにも、「あまり障害認定するな」「要介護認定するな」の圧力がかかり、学校や労働でぼろぼろになったひとや、トラウマを抱えて働けなくなった人々の支援を断ち、からだが悪い中でも支援が断たれていく。

このような公助が壊されてきた中で、人は、新型コロナウイルスが蔓延しても、検査や補償が足りず、病床もない。
なぜなら上に書いてきたような「社会制度破壊」が進行してきたからだ。
「公助」がない中で、自力で原発事故やコロナ禍を生き延びるのは難しい。
それで、一部の人はあまりの惨状に「自分のものの見方や角度を変える」まさにある種の自己啓発で切り抜けようとするのだ。
世間は「自己責任で生きろ」というなら、「自己意識を改変して危機を跳ね返すしかない」と。

あまりにも辛い、悲しい話で、それがさらなる分断の元になる。

例えば、「新型コロナは平気orねつ造」とする。見ないように、「意識せずに前向きに」暮らす。危機を「目をつぶって渡る」あまりに無謀であり、他のひとも被害をこうむるだろう。
とても推奨できない。

次に心配なのは「コロナと共生」という名の防御放棄だ。
「過度の清潔、手洗いうがいマスクはからだに毒だから、気持ちを明るくして自然免疫をあげていこう」と。
一般論というか世間知としては存在する考えだろうが、強毒性のウィルスの流行下では危険ではないだろうか。新型コロナウイルスは乳酸菌や納豆箘とは毒性などの面で違うのであると思うが。

(※2021.3.28追記

まさか「新型コロナウイルスは風邪やインフルエンザと変わらない」と考えてしまっているのだろうか。それは違う。栄養、運動、睡眠などしながら、免疫力を維持してほしい)
しかしこれでは、持病のあるひと、体力や免疫力が低下したひと、高齢者の命も守れない。私は生きた心地がしない。こわい。

そもそもCOVID-19だけでなくSARS、MERSなどもそうだが、コロナの強毒化は、環境破壊によって起きている可能性が高いわけで、ある意味、地球生態系がアラームを出して強毒化していると思えば、「ウィルスを受け入れ」ではなく、「環境破壊を止める」しかない。

 

 

私は近代社会がよい社会だと思わないが、人々は、感染症や飢饉や飢餓に襲われては、祈るしかない状況だった世界を忘れたのではないだろうか。
今日、南半球の大半の世界が豊かな自然が壊れ、同時に水道インフラや医療インフラも十分ではなく栄養状態も悪いため、手洗いやうがいすらできず、たくさんのひとが感染性胃腸炎結核HIVで治療が受けられず亡くなっている。

私たち北半球の「豊かな国」の人々が自然と人工の丁寧な腑分けもなしに、「コロナとの共生」を叫んでも仕方ない。「コロナとの共生」「コロナの無視」を掲げた国々は感染対策が不可能になっている。アメリカ、ブラジルなどの国々である。

人間はコロナと共生するのではなく、「地球環境破壊」や「貧富の格差」を正すべきなのである。

全地球規模でそれをやらないと、仮にコロナが過ぎても、新たなパンデミック、新たな気象災害、新たな津波や海面上昇などで、ますます生きづらくなるはずだ。

 

厳しいことを書いてきたが、やはりこれまでのオルタナティブなものの一部には、自己責任論や格差や優生的な差別への警戒に欠けるものもあるのだろうと思う。

それが発達障害や様々な障害の否認や否定を主張するものに変わっていき右派や危険な精神論に陥ることもあるだろう。

特に日本には、天皇制や自己責任と同調圧力があり、戦闘的な環境政治やNGOが育つ条件がなく、EU的な環境政治の方向や、アジア諸国SARS、MERSに警戒する体制を築いたりする方向には行かなかった。

代わりに台頭したのは、心がけや気づきという自己啓発と工夫や頑張りに彩られた自己責任論であり、公助の破壊であり、医療や福祉の信頼崩壊であり、原発事故やパンデミックにおける棄民と、棄民を「自己合理化」する陰謀論である。

国家や資本主義の地球的な横暴は、構造的なものであり、私たちの意識や気づきを機械的な力で押し流す。

第三の道を追及するだけでなく、やはり国家や資本主義の猛威を直視すべきなのだ。

つまり、私たちの日常こそが国家や資本主義の大津波というカタストロフなのである。

 

私は、小学校高学年から中学生のころ、日航ジャンボ御巣鷹山墜落やチェルノブイリ原発爆発という巨大な構造的災害が起きていて、同時に風の谷のナウシカにも影響を受けた。

巨大なカタストロフの重苦しい影が、自分たちの小さな暮らしに覆い被さり突き動かされていると思い、震撼されていた。しかし、家族や学校でそんな直観を話しても信じてもらえないし、いじめられるだけだから話さなかった。

高校受験を控え、冷戦が崩壊し天皇が死んだ。しかし未来に展望があると思えなかった。日常は息苦しく、私の心は、学校生活で疲弊し歪んでいった。

バブルの頂点に立つ国であったから、私の暗い、悲観的な心はバカにされて、大学に行く頃には生きることがしんどいと苦悩し、本ばかり読んでいた。

95年には、阪神大震災オウム事件があり、自分の精神状態も最悪で翌年のための就職活動もしなかった。

96年には尊敬していた祖父がなくなった。

この頃からすると、災害やカタストロフの規模はさらに巨大化し、身近なものとなっている。

国家と資本主義の大津波は巨大化してゆく。

私たちはそのことを構造的な現実と認識し、それが環境破壊せず、私たち人間も生きる余地があるような「公共的なあり方」を探らねばならないのだ。

 

 

オリンピックなど到底するべきではない。
オリンピックという「開発主義」と性差別的運営体制とナショナリズムの高揚とコマーシャリズムは、これは人間社会と環境をやきつくしてきたのだから。

原発事故やコロナ禍では、社会の自己責任化や閉ざされた思考枠組み(差別、偏見、安易なリスク思考)によって、様々な被害を受けた人々が被害を我慢させられ、社会的にも被害が認められ難くなりますー10年目の311を考える②

 

今日起きている災害の大半は複合災害となります。
原発事故被害地域や津波被災地域で、気候変動や巨大台風などに由来した豪雨災害が起きて、様々な被害が起きるということや熊本震災や原発事故地域、津波被災地域で、豪雨災害が起き、さらにコロナ禍となれば、何重もの困難が被災者を襲うことになります。

関東東北の原発や震災の被害地域で豪雨災害が起きたことは、ご記憶の方も多いと思います。

また全国の震災、豪雨災害地域もいまだ復旧復興の途上で、さらにコロナ禍の被害も重なっているわけです。

 

さらにそれに加えて、その方が高齢者、障害者、外国人、性的なマイノリティー、貧困な女性、貧困で孤立した様々な人々などなどであったり、あるいはいくつかの属性にあてはまるインターセクショナリティであるならば、さらに様々な避難や生活上の困難は増します。

普段から孤立したり、差別されている人々が大災害で、国家主義が高まり、「一致団結」から外されたり、避難所や避難する道などで不利益を受けるということは以前から指摘されてきたことです。

つまり、災害やその人のマイナー性といったものは、互いに足し算されていくもの。

しかしこの点を勘違いして、様々な災害のどちらが軽いかを比べる思考法があります。
災害は引き算にはなりません。

「新型コロナはただの風邪」などは、事実としても間違っていますが、その「困難を軽視する」ことは、「困難が軽くなる」のではありません。
それは「困難を見えなくして」困難に人間が対処することを妨げかねません。

原発事故と車の事故」を比べて、「原発」を正当化するロジックも同じ感じがします。
自分が車を所有して、事故を起こすということ、飛行機事故、災害、原発事故などの危険はそれぞれ理由や本人に責任があるかなどからして、まったく違うものです。

普通、責任や過失の割合が問われて、保険や裁判の適用があります。
ところが原発事故やコロナ禍では「被曝は怖がらなくてよいのに勝手に逃げた」とか「防御が足りずに感染したのは自己責任」と言われてしまいます。
このような自己責任思考と、原発事故やコロナ禍に対して政府が杜撰な対応をしているのには関係があると思います。
起きた出来事に関心がない人や「自分のことしか考えない」人が、他者の被害に鈍感になり、政府の無策などを合理化し、自分のみが心理的安全や「自分はお上から守ってもらえるはず」という気分になるだけです。
実際は誰も政府や自治体から助けてもらえなくなります。そんなことをしていては。

それはさらに関東大震災の時に朝鮮人に対するデマを流して虐殺することの親和性もあります。

「お上の責任を問わない思考法」が原発事故やコロナ禍で猛威をふるっているということです。
対策が間違ったり、不足していたら、それは行政や政治、大企業が気づいていないか、怠っている恐れがあるわけですから。

人は津波から避難したが被曝した人がたくさんいます。
その中には家族を津波で亡くした人もたくさんいます。
まさに泣きっ面に蜂以上の出来事です。

震災や原発事故で外国語の情報がなく、事態がわからないまま苦しんだ外国人の方がいます。

原発事故で県外に避難しようとしてたらい回しにされた障害者がいます。


コロナ禍でも、様々なマイノリティーが苦しんでいます。

精神障害者は、コロナなどによる一般病院への転院がなかなかできません。
入管収容者は、コロナのリスクにさらされてもなかなか仮放免や処遇改善がなされません。

原発事故やコロナ禍を甘くみるということは、マイノリティーの被害リスクを放置する社会体制を強化しかねません。

コロナと他の災害、その人のマイナー属性への差別が複合的な社会的困難が起きるということも、理解しているとは思えません。

また、感染症対策と生活補償を同時にやらないと対策が成り立たないことも理解されていません。
だから、マイノリティーやエッセンシャルワーカーや失業者が、感染のリスクと生活困難が同時に起きていることに気づかない人がたくさんいます。
だから「命と経済の対立」の枠組みでは捉えられないものばかりです。

コロナに感染して失業した人や、失業してさらにコロナに感染した人もいるはずです。

原発事故やコロナ禍では、社会の自己責任化や閉ざされた思考枠組み(差別、偏見、安易なリスク思考)によって、様々な被害を受けた人々が被害を認識できなくなり、社会的にも被害が認められなくなります。

このような上に書いたような社会の危険なあり方に思いをいたさなければ、震災と原発事故の風化は防げないと思います。
原発事故、津波災害、豪雨災害、コロナ禍で問われているのは自然ではなく、日本社会と今日の文明の間違ったあり方です。

【詩作品】冷たくなっていくから

 

生まれてくる
感じられてくる
もうそれでいっぱいに
なる
始まってしまって
未知の空に
甘いつばきが流れ
雨をみている
雨が薫る

 

こんなもの選んでない
こんなもの見たくない

 

だけどそれは
あるんだよ
悲しいことに出会いながら
私たちは
学ぶしかない

 

目をつぶっても
目の中に広がるよ
こんなに広がっていくよ
私を与えてくれた
すべての命
だから

嫌なものにも
見えるし
呪いたくもなるけど
世界はただ
生まれては
砕かれていく
星々

 

私は生まれてきて
香りに飲み込まれ
優しい感触に包まれ
でも
よくわからなくて
素敵なものに
くらべて
この世界は色褪せている
なんて
自分が選んだ嘘

 

いまわかる
キラキラした感覚が
失われてわかる
激しい夏がすでに
冷えてしまったから
この星は熱死
迎えるとしても
私たちは力を奪われて
冷たくなっていく
すべてお芝居に見えるのは
私に感じる力がないから
もう冷たくなっていくから
なっているから
匂いと味を奪われて
きらきらと
綿毛や胞子が消えていくの

 

ひとりだから
ひとりだから
愛さえ知らないから
ひとりだから
ひとりでさえ無いから
無いから
あたたかさを求めようとしても
人は
この世界のぬくもりを
奪った

 

宇多田ヒカルの曲を聴きながら