細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

日本社会の公助破壊と自己責任化によって、感染症対策や福祉的再分配は破壊され、オリンピックの炎が虚しく輝く構造的な大津波に抗うために

日本社会と日本政府は、感染症の危険とか公的医療福祉インフラの必要など無視して、「医療や福祉に頼らず勝手に野垂れ死にすることが理想」とか「ピンピンころり」とかの、つまりは「生活保護に頼るな」「心身が弱いひとは勝手に孤独死」せよと言わんばかりの政治をずっとやってきた。

病も障害も「心がけ」「自己責任」のせいにされてきた。

「介護予防」の名のもとに、病気などになったら必要なはずの高齢者介護は「頼るべきでない」とされてしまっている感さえある。

いつのまにか、障害者が支援サービスを求めることが相模原事件を引き起こした元介護者の考えに見られるように、「社会の負担だから」と切り捨てられようとしている。

相模原事件や京都のASL患者の嘱託殺人においては、加害者に対する共感さえ寄せられ、「支援を必要とするひとを社会的に排除」することが、本人にとっても「善」であるようにすり替えられてしまう。

他方、パラリンピック24時間テレビでは、「前向きで努力する」障害者の感動物語が「善意の人々」によって消費されている。

「善意の人々」は誰を苦しめているかわからないまま、「前向きな明日」に向かって、「感動」を消費する。駅伝や甲子園やスポーツ番組で「前向きさ」と「感動」をインストールされている。

社会や政府に怒りや悲しみを知らせるのではなく、「なるべくひとに頼らずがんばる」が美徳とされる。

しんどい人々すべてがプレッシャーを感じている。

「頑張ってぼろぼろになったのに、まだ頑張らねば認めてくれないのか?」と。

私はずっとそう感じてきた。

「頑張らなくていい」「結果や能力ではない」ということで、公的支援が差しのべられなければならないが、逆だ。

「ちゃんと仕事を探したか?」「持てるものすべてを使いきらないと」とさらに追い詰められ、厳格な審査が行く手を阻む。

これがファシズムや優生思想ではなくなんなのだろうか?


いじめやハラスメントを放置して、生きづらい人を追い詰めた。

自己啓発や健康法だけで生き抜くなど不可能なはずなのに、せっせと感動物語や意識変革と美容と健康法が推進され、それに人は乗っからざるをえなくなり、公的な医療と福祉は骨抜きにされたのではないか。
公共はしっかりやらないから、勝手に「ぽつんと田舎暮らし」して、ぼろぼろのインフラでやってくれということをおしゃれ風に言われても健康なひとしか暮らせない。

「ぽつんと田舎暮らし」も体調を崩した高齢者は山を降りている。
都市の暮らしには問題があり、自然を求めるのは間違っていない。
しかし、人々は、公的な医療や福祉、インフラを自ら放棄するように、促されていたのではないか。

地方であってもどこでも暮らしが保障される仕組みがないから原発や環境汚染のリスクがある仕組みを地方が引き受けさせられ、依存する構造にはめ込まれてきたのではないか。
都市や衛星都市にも十分な福祉があるわけではないから、孤独死や虐待が積み重なっていく。
それも、特殊清掃会社や精神科やカウンセリングや児童相談所に、お任せで、保健師やヘルパーが増えるわけではない。
そこにも、「あまり障害認定するな」「要介護認定するな」の圧力がかかり、学校や労働でぼろぼろになったひとや、トラウマを抱えて働けなくなった人々の支援を断ち、からだが悪い中でも支援が断たれていく。

このような公助が壊されてきた中で、人は、新型コロナウイルスが蔓延しても、検査や補償が足りず、病床もない。
なぜなら上に書いてきたような「社会制度破壊」が進行してきたからだ。
「公助」がない中で、自力で原発事故やコロナ禍を生き延びるのは難しい。
それで、一部の人はあまりの惨状に「自分のものの見方や角度を変える」まさにある種の自己啓発で切り抜けようとするのだ。
世間は「自己責任で生きろ」というなら、「自己意識を改変して危機を跳ね返すしかない」と。

あまりにも辛い、悲しい話で、それがさらなる分断の元になる。

例えば、「新型コロナは平気orねつ造」とする。見ないように、「意識せずに前向きに」暮らす。危機を「目をつぶって渡る」あまりに無謀であり、他のひとも被害をこうむるだろう。
とても推奨できない。

次に心配なのは「コロナと共生」という名の防御放棄だ。
「過度の清潔、手洗いうがいマスクはからだに毒だから、気持ちを明るくして自然免疫をあげていこう」と。
一般論というか世間知としては存在する考えだろうが、強毒性のウィルスの流行下では危険ではないだろうか。新型コロナウイルスは乳酸菌や納豆箘とは毒性などの面で違うのであると思うが。

(※2021.3.28追記

まさか「新型コロナウイルスは風邪やインフルエンザと変わらない」と考えてしまっているのだろうか。それは違う。栄養、運動、睡眠などしながら、免疫力を維持してほしい)
しかしこれでは、持病のあるひと、体力や免疫力が低下したひと、高齢者の命も守れない。私は生きた心地がしない。こわい。

そもそもCOVID-19だけでなくSARS、MERSなどもそうだが、コロナの強毒化は、環境破壊によって起きている可能性が高いわけで、ある意味、地球生態系がアラームを出して強毒化していると思えば、「ウィルスを受け入れ」ではなく、「環境破壊を止める」しかない。

 

 

私は近代社会がよい社会だと思わないが、人々は、感染症や飢饉や飢餓に襲われては、祈るしかない状況だった世界を忘れたのではないだろうか。
今日、南半球の大半の世界が豊かな自然が壊れ、同時に水道インフラや医療インフラも十分ではなく栄養状態も悪いため、手洗いやうがいすらできず、たくさんのひとが感染性胃腸炎結核HIVで治療が受けられず亡くなっている。

私たち北半球の「豊かな国」の人々が自然と人工の丁寧な腑分けもなしに、「コロナとの共生」を叫んでも仕方ない。「コロナとの共生」「コロナの無視」を掲げた国々は感染対策が不可能になっている。アメリカ、ブラジルなどの国々である。

人間はコロナと共生するのではなく、「地球環境破壊」や「貧富の格差」を正すべきなのである。

全地球規模でそれをやらないと、仮にコロナが過ぎても、新たなパンデミック、新たな気象災害、新たな津波や海面上昇などで、ますます生きづらくなるはずだ。

 

厳しいことを書いてきたが、やはりこれまでのオルタナティブなものの一部には、自己責任論や格差や優生的な差別への警戒に欠けるものもあるのだろうと思う。

それが発達障害や様々な障害の否認や否定を主張するものに変わっていき右派や危険な精神論に陥ることもあるだろう。

特に日本には、天皇制や自己責任と同調圧力があり、戦闘的な環境政治やNGOが育つ条件がなく、EU的な環境政治の方向や、アジア諸国SARS、MERSに警戒する体制を築いたりする方向には行かなかった。

代わりに台頭したのは、心がけや気づきという自己啓発と工夫や頑張りに彩られた自己責任論であり、公助の破壊であり、医療や福祉の信頼崩壊であり、原発事故やパンデミックにおける棄民と、棄民を「自己合理化」する陰謀論である。

国家や資本主義の地球的な横暴は、構造的なものであり、私たちの意識や気づきを機械的な力で押し流す。

第三の道を追及するだけでなく、やはり国家や資本主義の猛威を直視すべきなのだ。

つまり、私たちの日常こそが国家や資本主義の大津波というカタストロフなのである。

 

私は、小学校高学年から中学生のころ、日航ジャンボ御巣鷹山墜落やチェルノブイリ原発爆発という巨大な構造的災害が起きていて、同時に風の谷のナウシカにも影響を受けた。

巨大なカタストロフの重苦しい影が、自分たちの小さな暮らしに覆い被さり突き動かされていると思い、震撼されていた。しかし、家族や学校でそんな直観を話しても信じてもらえないし、いじめられるだけだから話さなかった。

高校受験を控え、冷戦が崩壊し天皇が死んだ。しかし未来に展望があると思えなかった。日常は息苦しく、私の心は、学校生活で疲弊し歪んでいった。

バブルの頂点に立つ国であったから、私の暗い、悲観的な心はバカにされて、大学に行く頃には生きることがしんどいと苦悩し、本ばかり読んでいた。

95年には、阪神大震災オウム事件があり、自分の精神状態も最悪で翌年のための就職活動もしなかった。

96年には尊敬していた祖父がなくなった。

この頃からすると、災害やカタストロフの規模はさらに巨大化し、身近なものとなっている。

国家と資本主義の大津波は巨大化してゆく。

私たちはそのことを構造的な現実と認識し、それが環境破壊せず、私たち人間も生きる余地があるような「公共的なあり方」を探らねばならないのだ。

 

 

オリンピックなど到底するべきではない。
オリンピックという「開発主義」と性差別的運営体制とナショナリズムの高揚とコマーシャリズムは、これは人間社会と環境をやきつくしてきたのだから。