細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ヴァルネラブルなわたし。わかってほしい微妙なわたし。

むかし、山口昌男という人類学者が、イジメを受けやすい人はvulnerableな存在だと言いました。
ヴァルネラブルとかバーナブルとか言います。

これを読んだ時私はなるほどと腑に落ちました。

攻撃にさらされやすいとかいう意味です。

例えばレッテルを貼られたり、非難にさらされやすい人々がいます。
障害者や被差別者や妊産婦などヴァルネラブルな人は、一般市民から誤解され攻撃を受けやすいのです。

私は若い頃は自分のことを被差別者や障害者だとは思っていませんでした。
しかし精神的にボロボロになり、自分は障害者ではないかと考えてみて、若い時から頑固でナイーブだった自分を思い出しました。

イシカワさんは普通の人にしか見えないとか、傷つきやすいのも個性だと言われたりします。
しかし、普通に見えてあまりそうじゃないという特性、傷つきやすく、いつまでも辛さが消えない、それによって、自分が適切に理解されず、傷つき、嫌な思いを受けて来たから、例えば善意や親切心も、私は素直に受けられません。
小さな時や若い時に、元気がなく、おどおどして何もしない自分に、親や友達や先輩に、体を鍛えたらとか、チャレンジしてみたらとか善意で教えてもらいましたが、それとは違う問題なので、悲しくなりました。

今では自分で、納得してヨガをしたり、市民運動したり、勉強したり、私も40年かかって、ここまで来ました。親と分かり合ったり友達や知り合いに説明し、わかってもらうにもここまでかかりました。

その観点から芸術や福祉や社会問題について発言しています。

発達障害を単なる「個性」として相対化することへの抵抗と違和感

発達障害などは見た目にはわかりにくいが、見た目が大丈夫そうだから、あなたのそれは普通と変わらない、大したことない、個性と考えなさいというのは慰めになってない。
なぜなら、本人が内的にしんどいとか不具合があるから発達障害を認識するに至っているのでそれを個性で済ますのは危険。

本人が内的にしんどいと感じる生きづらさは、本人が健常者社会から受けるプレッシャーによるものかもしれない。だとしたら、それはどれくらい本人のせいではないか、実際に生きやすくしたり、苦しみを減らすにはどうしたらよいかと考える。
その時に発達障害という呼び名が必要な時もあるかもしれない

障害概念を単に社会から受けるレッテルとだけ認識すると、本人が苦しみに名前をつけたり、語ったりする行為を見落とす。
必ずしも障害と呼ばなくてもよいとしても、不具合があり、周りの支援や配慮が必要な時、その苦しみや不都合を語れる共通言語はあったほうがよい。

概念というのは静的なものではない。
つねに使う人が意味やあり方を更新しているのだと、障害学や、社会学で習った。
これは震災前。

べてるの家で、自分に病名をつけるという取り組みがある。苦しみにぴったりな名前を本人がつけ、その苦しみを仲間や医師と語り合う。
彼らは精神疾患者として社会的には規定され施設に来ているが、自分の側から病を規定し主体的に引き受け直す過程である。

そんなべてるの家には「治りませんように」という言葉がある。
簡単に治ってしまうのではなく、苦しみを引き受け、認識し、人生の一部として捉え、そこに含まれている自分らしさを取り戻す、それはじっくりであり、社会や自分の焦りではなく、自分が病気になった意味をつかみ変換する。

べてるのやり方は、障害概念の単なる否定ではなく、患者自身が内在的に、自分が病気であり苦しみであることを引き受けるために新たな概念を開発する行為である。
そこでは病気は単に個性に変換されていない。
病気や苦しみをその人らしく個性的に認識し、語りの場にするということ。

このような例は青い芝の「われわれCP者は」という宣言にも見られる。
脳性麻痺=CPとして、差別されている主体としてはっきり宣言し、その存在を社会や健常者につきつけ、見て見ぬ振りをするな、ないことにするなと、排除の実態を浮かび上がらせるのだ。

障害を個性だけで片付けるならべてるや青い芝の取り組みがわからなくなってしまう。差別のある社会の中で、自らの特異性や苦しみを自らのものとして引き受け直すには、単に否定したりするのではなく、障害と呼ばれるものの意味を社会と自己に直面させ、解放するような複雑な戦略が必要なのだ。

発達障害という概念はいまだ形成途上にあり、いろいろ不十分さを抱えながらも、臨床的社会的概念として機能はしている。
発達障害は脳神経の新たな知見により、障害のある人とない人にははっきりした区切りはないスペクトラムなのだという考え方を打ち出している意味で、反ではないが脱差別的な概念かもしれない。
しかしそれはまだ十分に差別性を拭えていないかもしれない。
しかし気になることがある。まず発達障害スペクトラムであり、健常者と障害者の明確な区切りはないという意味で、各人の発達は個性的であると述べている概念だ。
そのことを発達障害は障害ではなく、個性だという人はわかっているのだろうか。
発達は個性的でもあり、障害としてたちあらわれる瞬間がある。
社会的に差別が作用して、障害になっている面と、本人が困難を障害的に捉えざるをえない面とがある。
そのような多面性を私たちが理解する時、差別はひとつ、発達について解除されうるチャンスがあると私は思う。

 

ここ半年で書いた原発事故や放射能汚染関連記事11本

原発事故、放射能汚染関連では、半年で11の記事を書いています。

単なるセンセーションでもなく、また冷静を装うわけでもなく、時代の底流をおさえて、書いています。心が不安定で書くのが大変なのと、丁寧に読んでくださる読者がたくさんではないのとで、モチベーションがなかなか維持できないですが、月二本弱でも書いていたのだと自分を認識し直しました。

 

原発震災から約6年。復興の大義名分の陰で、放射能汚染は矮小化、避難者などの住民支援は後退。除染や復興事業の予算と不祥事が積み重なる。 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/03/07/115142

大阪府市の瓦礫広域処理差し止め裁判の、大阪高裁での控訴棄却について思うこと - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/03/17/233911

除染土の上に公園作りたい環境省。除染事業は不祥事続きのまま終了。森友、共謀罪、日報、除染土全て政府の情報秘匿が核にあり。 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/03/26/121219

今村復興大臣「避難は自己責任」「裁判でもなんでも訴えて」発言の核には全原発被害者・避難者をすべて切り捨てる国策がある - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/04/06/180349

20170401大阪市立大学医学部にて。原発事故後の健康影響について津田敏秀氏と西美和氏の特別講演傍聴レポート - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/04/08/193156

原発避難者、被災者の怒りと悲しみの追及が生んだ今村復興大臣辞任劇、その真相を忘れるな! - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/04/25/233807

浪江町で起きた大規模山林火災について、今後の山火事対策と付近の安全のために、安易に放射能拡散はないと即断せず調査と対策が必要 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/05/10/103041

福島地元紙「除染土壌の安全な再利用は管理が必要な土壌の減量につながる。しかし、住民が受け入れるには、何より「安全」について納得できることが重要」と報じる。しかし除染土壌が安全とはとても思えない。 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/06/16/171739

放射能汚染防止法を制定しよう勉強会in 岡山に参加してきました。 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/06/25/231544

河野益近さん、石田紀郎さん、日本の戦後の放射線や環境問題のエキスパートに学ぶ素敵な1日 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/07/10/235814

被曝から命を守ることは、命への加害を許さないこと、人権の基礎 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/07/20/143818

 

 

首相と加計氏の食事「大臣規範は禁止していない」と菅長官は言うが、これがまかり通れば、どんな汚職でもお咎めなしになってしまわないか。

こんなこと言ってたら、市町村から政府まで官民の汚職はやり放題です。

割り勘なら、懇意の業者と、行政官はご飯食べ放題。

懇意の業者に豪華な発注が集中しても、調査すらできなくなります。


とうてい、行政長ナンバーツーの官房長官としてあるまじき発言です。総理の保身のために法治を崩壊させることになると思います。


‪首相と加計氏の食事「大臣規範は禁止していない」菅長官:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASK7X64PJK7XUTFK02C.html
‪「菅氏は、首相が24日の衆院予算委員会で「食事代は私がごちそうすることもあるし、先方が持つ場合もある」と答弁したことを挙げ、「一方的に接待を受けたら抵触するが、通常の交際」と指摘。」‬

福島瑞穂参院議員の指摘が正しければ、過去の総理答弁書に重大な事実誤認があるか、10年前あるいは一昨年から加計学園が候補だと知っていた場合は大臣規範に抵触の恐れ。

https://m.facebook.com/TeamMIZUHO/posts/1571542976230365

 

福島瑞穂参院議員の指摘が正しければ、いずれのケースにおいても総理には重大な行き詰まりがあり、責任が発生します。

 

①もし10年前、あるいは、一昨年から加計学園が特区候補だったことを知っていたという答弁が間違いであり、2017年1月20日に加計学園が特区候補だとはじめて知った場合、過去の閣議決定した政府答弁書などに事実誤認があることになり、これは重大な問題です。

また、10年前や一昨年の記憶がなぜ間違いだったか、安倍総理は説明しなければなりません。

内閣法

「第一条  内閣は、国民主権の理念にのつとり、日本国憲法第七十三条 その他日本国憲法 に定める職権を行う。
2  内閣は、行政権の行使について、全国民を代表する議員からなる国会に対し連帯して責任を負う。」 

 

②2017年1月20日に加計学園が候補だと知ったという答弁は間違いで、10年前、あるいは、一昨年から加計学園が特区候補だったことを知っていたという答弁が正しい場合、特区申請の加計学園理事長と安倍総理や各大臣は何度も会ってますから、理事長は「関係業者」にあたり大臣規範に抵触する恐れがあります。

 

「(6)関係業者との接触等 倫理の保持に万全を期するため、 1 関係業者との接触に当たっては、供応接待を受けること、職務に関連して贈物や 便宜供与を受けること等であって国民の疑惑を招くような行為をしてはならない。」

http://www.cas.go.jp/jp/siryou/kihan.pdf

 

また、もし、互いが何らかの利益実現に当たって、便宜を図り、その見返りに何らかの贈り物や金品の授受があれば、斡旋利得や贈収賄事件に発展する恐れがあります。

 

 

いずれにしても、過去の答弁との一貫性も確かめず、場当たり的に答弁をするというのは、安倍総理大臣の信義誠実を疑わしめるものです。

言葉は丁寧になりましたが、場当たり的に答弁を変えてしまうのは、自らが関与を疑われないためか、あまりにもいい加減だからとしか言いようがなく、総理の職責を果たす気があるのか、疑われても致し方ないと思います。

このような状況を一刻も早く改めねば、加計学園疑惑全体に言えるのですが、日本の行政における責任の欠如は末期的な段階であり、その損害は極めて大きいと思われます。

被曝から命を守ることは、命への加害を許さないこと、人権の基礎

 

先日、優生思想になってしまうからという理由で、放射能による被曝影響を語ることをためらう的な言葉を見かけました。
今も放射線から身を守ること、と、優生思想は意味がまるで違うということを整理できていない人がいることに暗い気持ちになりました。

放射線から身を守るというのは、よくよく整理すれば「殴られたくない」「殴るな」ということに尽きます。
優生思想は「より優れた遺伝形質を恣意的に決め、それ以外を淘汰させる」という意味を持っています。優生思想は民主主義に敵対します。なぜなら一人一人の違いが社会を作っているからです。
「殴るな」と「より優れた遺伝子以外を排除する」は意味が違います。脱被ばく側もそうでない人も、障害福祉の人々もそうでない人々も整理すべきです。

自然界にあるからというのも話が違います。原子力発電所で人為的に核分裂をわざわざ起こし発生した放射能を問題にしているからです。

放射線というのは遺伝子、細胞レベルで、命を傷つけるものです。
日本が原子力を推進してきたから、みんな傷つけられても仕方ないというのは極論過ぎます。
これまでの東京電力や日本政府に責任がない未来世代への加害は正当化し得ません。
また東京電力の受益者は厳密に言えばたくさんはいません。東京電力の電気を買ったからといって、放射能に被曝しろというのも極論過ぎます。
東京電力を解体し、原子力放射線の政策を改善させることがその方々に課せられた務めかもしれません。
被曝労働を貧しい人間に押し付けるのか、被曝徴兵制を敷けという意見には、一瞬そうかなと思いますが、しかしまず重層下請け構造をやめさせ、大電力、大企業が安価に危険な労働に貧しい人々をかり出せる仕組みを無くすべきです。それは、日本の学歴社会や格差をラディカルに変革しなければなしえません。

また、廃炉や汚染対策に一定の作業員が必要だとしても、現場が不当な被曝にさらされ、検診や労災さえまだまだ不十分なので、それを求めなければ、今後働いてくれる人は誰もいなくなり、福島第一事故現場は破滅しかねません。

食べて応援というのも無理があります。汚染された土をいじり作物を育てる人が一番被曝する構造は温存されたままだから。

東京電力や日本政府は、できた対策や規制をないがしろにして、事故を起こし、低線量被曝するおびただしい人々に「問題ない」と被曝をなかったことにして復興だといっています。
つまり加害者が被曝にほっかむりしている現状です。
つまり今の状況には「放射線によって人を傷つける加害者がいる」のです。
被曝は、生命の基礎である遺伝子や細胞を傷つけます。
その加害、加害者を許さないのとより優れた遺伝子を求めている優生思想とは違います。

 

例えば被曝影響があるかを心配すること自体差別だとか、優生思想だという言説まであります。
それは違います。もちろんそれで、人を差別し馬鹿にするのがおかしいのです。くさいものに蓋ではなく、私たちは放射線被害の実相を知り、差別を是正する必要があります。
被曝影響で障害があったとして、それをいじめることが優生思想です。
そのような不当な被曝により、生まれながらに苦しみを背負わされることに被害があります。
しかし、障害があったとしても、その人を分け隔てなく生きていける仕組みにすることが、また周りの大人が障害のある親子の負担を小さくする社会にすることが、優生思想と戦うことであり、そんなの理想だと言われても、これしか答えはありません。
また、産むか産まないかを悩まざるをえない状況というのも、社会の価値規範や生きづらさが形成してる部分が大きいと思います。
加害者を免責し、人々を被曝状況に放置し、放射線感受性が高い人から倒れていくほうがよほど、「優生思想」的な「淘汰」であり、私たちの工夫や努力で、被曝を少なくする体制を整えることこそが、優生思想に抗う見方に近いと思うのですが。


よく被曝を気にする人で、「自己防御しかない」といい、一理はありますが、最終的にはみんなを被曝から守る仕組みにしないと、被曝は容認され続けます。その意味でも社会の変革は避けられません。

 

これらのことを十分に議論し、その上で、汚染された場所にとどまるか、避難するか選んでもらえば、答えはずいぶん違ってきます。避難する人もとどまる人もあの事故で、ふるさとの今までの姿を失いました。
私たちは被曝から身を守るのは権利だという視点を忘れずに議論をしていくことが望ましいでしょう。
これからさらにだいじになるはずです。

 

私の考えもまだまだ不十分ですし、これからまた考えて考えていかねばなりません。今は見えていないものが見えたら、修正する部分も出るかもしれません。

偉そうに書いてますが考え続けるほかないのでしょう。より良い答えが見つかるまで。
そもそも答えなどあり得るかということも含めて。

勇気もないし、根性もない。だけどこれは言わなければ、言える場所がなければと、それが表現の自由じゃないすか。

僕は最近街宣に参加してますが、「無理解な大衆が!」みたいなことはしゃべってません。差別もイジメもセクハラも戦争も原発も政府もみんなダメだと思う。若者も大人もみんな息苦しいはずですよね?人をいじめるのではなく、なんでこんな社会になってるか考えましょうよという呼びかけです。

もし世間に無理解や偏見があるなら、ありますからたくさん、それは指摘します。
基本はハートでしゃべるんです。祈るような気持ち。安倍や橋下の批判をするときでも、それぞれが楽しく苦しめ合わずに生きられたらとそんな感じです。

私は、私はいじめられた、とか心が辛いとか、ちゃんと叫ぶんですよ。
絶対にそんな思いをしてるひとがたくさんいるし。
1人だって思ってほしくない。単に騒いでるのでもない。本当は警察は怖いし、暑いのもやだ。
だけど、何か言える間は言うんですね。

ヨーロッパには、広場があって、アピールができます。韓国や台湾やビルマやフィリピンや中国の人だって、好きで軍隊や警察に殴られてるのではない。街頭で話す自由がなくなれば、その社会は終わりだ、他の諸権利も終わりだと知っているから。
つまり日本は限りなく統制された社会。これが戦争生んだ。

原発も、いじめも、性差別も、差別も、腐敗政治も、みんながヘンだよね?と口にすれば簡単にできません。
私は民主社会の基本原理が人々が意見を言う、感じたことを話す、から成り立っていると考えている。
亡き恩師に、民主主義について教わった。もちろんあまり理解できてないが、それでも。

繰り返すが、私は体力も気力もだいぶ小さいし、怖いのは嫌い。私の参加してる街宣だって、気の強い人ばかりじゃない。
そんな人々が止むに止まれず、気持ちで叫んでいることが徐々に若い人に伝わっている気がする。

私は最初の頃こうも叫んでいた。
「みなさん、またうざい左翼がなんか叫んでうるさいなーと見てるでしょう?その通りです!私たちはうるさい左翼です。でもうるさいことを言わねばならない。私たちもみなさんも悪い政治家になめられている。そうじゃないか!?」と。

だって、私は大衆を笑えるほど賢くないよ。さらに私は特別な人ではない。私たちを孤立させないでほしい、なんならたまには力を貸してほしい。いやちがう。いろんなところで声をあげ、変わっていかないとこの社会は必ず破局に至る。

私のような弱虫まで叫ばなければならなくなっている。それは、私という弱虫が徐々に、向こうから殺されることを予感しているからだ。
私は幸せになりたい。言いたいことを言わねば、後悔して死んでしまうだろう。
うまいものを食べても、好きな人ができても悲しいだろう。
だから勇ましい理由はない。