細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

新型コロナウイルス禍の衝撃を斜に構えたり、否認したりせず、真っ直ぐに受けとってみるためにー「危険派と安全派が騒いでいるだけ」という安易なリスク論的な「中立」から離れてコロナ禍の倫理的意味を考える

 

多くの人が、指摘しないことだが、しつこく指摘するのは、「コロナは嘘」などの言論は、トランプ前大統領のマスクや防護を軽んずる発言や、アメリカや日本のインターネット空間の右派などを通じ、世界大に拡散しているが、それは「コロナ感染被害者」を蔑み、無視し、差別する言論であるということだ。

私はそれが米日の右派言論とつまりは人種差別や性差別などと接続されていると考えている。
米日の右派のアジア、とりわけ中国への差別的視線と、陰謀論が、新型コロナウイルスをめぐっても強まっている。

これはあからさまに、疫病のもたらす様々な影響を無視する言論であり、新型コロナウイルスという疫病に差別的なイメージつまり「インチキである」という非道きわまりないレッテルを貼り付けて、新型コロナウイルス禍における命と社会の巨大な被害を無視し、人々を見て見ぬふりに誘導して行く。

(福島原発事故チェルノブイリ原発事故においても、見て見ぬふりを促進する言論や政治的な力が存在してきたことと近いなにかを感じている)

実際は新型コロナウイルスは、自然と人間社会の関係がうまくいっていないという意味で、地球温暖化、気象災害、放射能やプラスチックの汚染、などと並び立つ地球規模の環境破壊と、人間の産業社会構造が限界を迎えているという人的災害の複合災害である。

様々な環境破壊や災害から地球的な見えない連帯の下地が出来上がっているように感じる(それはチェルノブイリ事故の時と近いかもしれない)が、そのような連帯の芽を感じるより、なぜか見てみないふりが加速された雰囲気を私は感じてきた。
しかし、世界に様々ある苦や問題のそれぞれ(私なら障害者のことや放射能汚染や文学で苦をあらわすこと)はそれぞれ大事なものなのであり、コロナも様々な被害や影響を与え続けてきたという意味で、重要な問題系の参入なのである。
確かにニュースが飽和するから追いかけるのは大変であるが。
私が思うに、新型コロナウイルスもまた、福島原発事故チェルノブイリ核惨事、地球温暖化などと同じく、地球と人間の関係の危機として、世界大の広範な危機意識を醸成している。
その意味で、新型コロナウイルスも、人間の暮らしのあらゆる面に侵入し世界を変えており、それは他のカタストロフと同じく、人間の意識と下部構造を覆している。
感染症は、かつてからそのように世界観の転回の場面に色彩を与えている。
聖書は、治療神としてのイエスを登場させ、疫病に苦しむ者や当時原因不明の難病だったてんかんの患者を癒すのである。

疫病や難病は、当時恐れられていたが、イエスは、それらの人々を世界に存在する苦の受難者として、捉えていたはずだ。
病気や苦しみが理不尽にもたらされた物語として旧約のヨブ記もある。

それらは、米日の右派がもたらした「コロナは嘘」と逆である。
仏教の中でも、疫病や飢餓、戦争などで道端に打ち捨てられた遺体を見つめながら無常をさとっていった。
無論、現代の科学は、ウィルスは微粒子として、吸入、付着して感染を引き起こすということを発見したから、古い時代の宗教や物語のように、感染に無防備で飛び込むというわけにいかない。

しかし、マスクや手洗いをして、他者のために、命のつながりのために、そしてそれが自らの命を大切にするようなそんな精神的態度が、感染予防に含まれる倫理哲学かもしれない。
米日の右派が恐れているのは、感染症を通じて人々が新たな精神的態度を身につけて、命を大切にしない産業文明を転換してしまうということではないだろうか。
コロナというパンデミック感染症の衝撃は、地球温暖化放射能汚染やプラスチック汚染とともに、私たちの環境破壊が全世界的にあからさまになり、それを転換するということが、個人個人の意識や取り組みに押し込められるのではなく、システムの転換に至るべきだという示唆だと思っている。

 

 

 

放射能汚染問題の時にも感じたが、「悲観論者・危険派」と「楽観論者・安全派」が言い争いをしていて、間に「現実論者」がいて、という構図には、疑問があります。

そこに「被害者、感染者、生活困難者への眼差し」という点を付け加えれば、やはり「コロナは風邪」で説明できないものがあることは言うまでもないでしょう。
無症状者にも肺などに損傷が起きていたり、軽症者にも後遺症があるという報告があるからです。

インフルエンザやコロナといったウィルスは感染性を高め、致死率が高まるパンデミックがたびたび起きています。
今がまさにその時で、収束の時期は10年という話もありますが、未定です。

経済や生活といった暮しの要請は重要ですから、私もそれは考えて日々生きています。
が、新型コロナウイルスが私たちの暮しや命の態度を転換しつつあるのも事実。

私たちは、必要な警戒をしながら、このパンデミックの意味を感じようとすると、「安全派と危険派が騒いでいる」という単純化された達観、俯瞰の構図では説明できないものがあるだろうと思います。