細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

命より権利より「日本は大丈夫」というイリュージョンを維持したい日本政府が作り上げたクルーズ船の悲劇と国内感染の過小評価

クルーズ船を「水際」に停留させ、乗船者を「日本」から「隔離」するという日本政府流「水際対策」により、日本政府は「日本国内に感染症は入ってきていない」というイリュージョンを、日本人、世界のマスコミに見せようとしたのではないだろうか。

そのイリュージョンの代償として、国内感染症対策は全く進まず実態不明で国内感染者は適切なケアを受けられず、クルーズ船の乗船者たちは、感染症にどんどん罹患していった。

(もちろん、あのやり方しかなかったといった意見もありうるとは思うが、乗客乗員の国ごとにどのように感染症対策をして帰国してもらうか、という交渉を各国政府と迅速に行えば、ここまで世界中のマスコミや政府から疑問や批判が噴出することはあり得なかったのではないか)

 

クルーズ船の乗船者や国内感染者を犠牲にしても守りたかったのは、イリュージョンとしての「日本は大丈夫、中国みたいになっていない」というおよそ、国粋的排外的な絵面ではないか。

そしてとにかくその絵面をみたがるのは、中国を差別し「日本は大丈夫」と信じたい(政権を含め)右派的な排外、自国中心主義的な人々である。 

命より権利より「日本は大丈夫」というイリュージョンを信じたい政府と権威主義的な傾向を持った民衆ががんばろう、安全を連呼することは、戦時中も、敗戦後も、公害の時代も原発事故でもウィルス蔓延事態にも繰り返される。

そして、イリュージョンとしての「日本は大丈夫、平和、がんばろう」の中核に、気分的お守りとしての天皇と、実力としての米軍、自衛隊が鎮座している。
そしてあらゆる国家被害者への責任を取らずにのうのうと国家が維持され総理や大臣や官僚は言い逃れに走る。

そんな日本が本当に嫌だ。

変えなければ再び太平洋戦争に匹敵する政治災害を引き起こすのではないか。

なぜ、日本が侵略国家として破局的な戦争をしてしまったのかまざまざとわかる。

新型ウィルス感染拡大と福島第一原発事故は、「日本は大丈夫」というイリュージョンの維持のために、被害者を犠牲にして推移している。

つまりこれは戦前戦中と変わらない「国体護持」なのだ。

厄介なことに、感染症については日常的な想像力から危機をまだ、イメージしやすいが、放射能については、イメージすらしがたく、専門家、産業界、政官界の鉄の結合で「安全神話」がつくられている。

 

さて、ホテルでパーティしたのに、領収書はなし、政治資金収支報告しなくてよいなど、一般的な商慣行の否定、政治資金規制法や政治家の規範の根本的な否定である。 

そのように社会のルールを破壊しても守りたい「国体=自分たちが搾取者でいられるイデオロギーと経済の仕組み」がある。

 

天皇の戦争責任否認という根本的な倫理規範の破壊という事態から始まった戦後社会が、資本主義の限界という事態に立ちあって、元々あった腐敗を破局的なものにしている。