細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「検査も病床も医療も予防接種も補償も手薄なまま、オリパラ開催中の感染爆発を耐えさせられる」現実と、「コロナは大したことないから科学的対策なしで自己治癒力や精神力で頑張ろう」という類いの論調の関係について

 

現在進行形で起きているコロナ禍の惨劇に対する日本政府の対応は、日本が戦前、戦後に行ってきた天皇制的なマイノリティーの排除と似たメカニズムをもつ。

オリパラ開催を感染症対策や補償より優先するという恐るべき事態は日本の近現代史における国策的惨劇の反復に見える。

国民的高揚や感動のために、人々の命や生活が引き換えにされているともいえる。
それは戦後において例えば戦争責任を根幹では否認した経済発展となり、経済侵略や公害や差別や原発の推進となり、被害者の切り捨てとなる。
感染者と経済被害者への支援を手薄くし、東京オリパラをするというものも本当によく似ている。国家や経済の見かけの発展のために、人々の苦しみは片隅に押し退けられるのである。
これは植民地侵略して、命や財を奪い、これを開発や戦争に当てたという侵略体制の経済システムと同じく、人権や生命の擁護への反逆である。

経済や国家の繁栄のために、人権や命を奪うというのは、まさに近代の負の側面の繰り返しである。

ところがコロナ禍がもたらすこの危機を否認する思想がある。
コロナ禍を精神論、自己責任、その人の治癒力だけで乗り越え可能とする思想であるが、それはこの感染症対策よりオリパラという暴力性の受け身的反映ではないか。
なぜなら、実際にコロナ禍を国からは自己責任で、即ち自宅で寝て、補償なしに耐えろ、オリンピックの感動という精神論で耐えろといわれているからである。

それは、検査も病床も医療も予防接種も補償も手薄な状況に耐えるということになる。

 

即ち自然治癒力と「心がけ」で「あきらめてコロナとノーガード共存しろ」という話になるだろう。それは例えば、コロナは平気論というものと酷似してくる。
コロナ禍でオリパラを敢行するような類いの国策と恐ろしく同期している考え方なのである。

だから、私は「真実に目覚める」のではなく、人権や生命の擁護と、起きている現象の客観的な分析が必要だといっているのだ。