細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

パンデミックの世界で考えてみる。自閉症の私と世界の間の距離

 

私は小さい頃から不安や恐れが強く、これはなかなか言葉でいわく言いがたいから、詩を書いたり、いろいろしてきたわけです。
その点、自閉症スペクトラムという言葉を知って助かった面があります。
それは自分の中には、なかなか溶けてゆきがたい何かがあるのを認めるきっかけになり得たことです。

無理矢理変えようとしても変わらないものに、怒りや苛立ちを覚えていたら自分を受け入れられないし、自分を受け入れられないなら、他人なんてもっと受け入れられないからです。

非常に悲しい苦しみにずっと苛まれてきたんだとその時私は理解しました。
本当の意味で自分を深くhold(抱き締める)される、することができていなかったのだと。

私は自閉症スペクトラム的なマイペースさ、現実との距離によって、小さい頃はぼんやりしていて、すごくいじめられました。
親も私の特性は長い間わからなかったのです。

それで他人を深く恨んだり苦しんで七転八倒したこともあり、深い傷が私の中にあるのがわかります。

いじめられていた頃、風の谷のナウシカチェルノブイリ事故を知り、世界が深刻な危機にあることを、非常に精彩に感じた記憶があります。

学校や人間関係というシステムに悩んでいた私には、この世界が病み壊れつつあることがわかり、私の苦痛にも意味があるのではないか。
みんなどこかで、絶望しているのではないか。

だから人をバカにしたり差別したりするのではないか。

そして文学や思想に触れ、私は思ったのです。
自分の苦しみの理由を知ろうとする中で、必ず他者に出会い、他者や世界の病と苦悩の一端を知ることができると。

(閑話休題)

私は大阪にいますが、大阪にも政府の緊急事態宣言が発令されてます。
コロナの患者が非常に増えています。
何の補償もないまま、働き、あるいは休むよう自粛を「要請」されている。
すべては自己責任。なんという「宣言」なのかと。

そんな中のお出かけは複雑な気持ちです。
マスクはしています。帽子もかぶってます。お手拭きシートで手を拭い、緑茶で喉をきれいに保ちます。

駅前は普段の平日の半分以下の人出。
コンコースも普段よりずいぶん空いていて、店も閉まってますが開いてるとこもあり、不思議。
JRは電子掲示板で、緊急事態宣言や自粛を伝えています。

精神科の診察に行きました。

病院に行くと、待合室は、椅子が減っており、間隔がひらいていました。
待合室には受け付けのかたと私以外いません。

あちこちの扉が開放されていました。

名前を呼ばれて、見ると主治医は、いつもと違う場所から呼んでいます。
ついていくと、15人ほど人が集まれるような作業スペースには、主治医ひとり、マスクし、座ってます。
私は主治医のいる机の、その手前の机の椅子に座っています。

医師からは2メートル弱は離れています。

私はコロナパンデミックの見通しのなさ、感染の心配などを話しました。
主治医は若く、少し自信がなさそうに話す癖があります。
しかしこの日は、自信のなさより、主治医自身も見通しのなさに困惑しているような口ぶりや様子でした。

ただ、私の他者理解の限界なのか、それ以上はわかりませんでしたが、医療や福祉や介護の現場で深刻なことが起きてると、それはニュースから想像できましたし、私の実感からもわかります。
昔、心身が辛くなる前は障がい者の介護の仕事を3年してました。

医療や介護は大半が「濃厚接触」で成り立っています。
あまりにも深刻です。
精神障がいになり、現場を離れた私には、もはや皆さんを支援する力はほとんどないのですが、しかし、昔していた仕事なだけに、非常に心配しています。

私は今後通院より、医師にオンラインや電話による診療ができないかと要請しました。
 

そのあと、本屋に行ったあと帰ってきましたが、なんとなく、街に所在無げで不安な雰囲気が感じられました。
私がそんな気分だからだろうか。
いやちがう。
私は私の不安が他人の不安と近い水準にいることを感じているのではないか。
人間は接触や関係、多忙にすることで、この現代文明を築いてきました。

(私の特性は接触は比較的大丈夫ですが関係とか多忙とかが苦手です。認知がうまくいかず人の複雑な善意や悪意がうまくわかりません。スケジュールも複数重なるとうまくいかなくなります、)
しかし、それはすべて感染源になりかねない、非常に複雑な事態が起きている。
しかも、このウィルスに対して免疫力が備わるか、不可能なのではないかという予測までささやかれている。

その時今までの適応スタイルを変えるだけでなく大急ぎで作る必要がある。
しかし、その間にも人間は死にゆっくりしている時間もなく、さらに人類社会の存続さえ保証されてはいない。

私は自閉症スペクトラムなので、いわく言いがたい他人との疎通の困難、寂しさを抱えています。
さらに、それは愛着障がいとも絡み合い、私が心底安心したり、私が他人を安心させることをさまたげています。
常に不可解な壁があり、また、それは、私の感覚過敏が外界に反応しすぎるのを妨げる働きもしているのでしょう。
私は壁の中で、沸騰したり冷たくなったりを繰り返しています。

そのような私の不安と、他人がアイソレート(孤立化)し、ディスタンス(距離)を強いられ、あるいは、感染に対してフラジャイル(脆弱)でバルネラブル(攻撃されやすい)な事態がどこかで、響きあっている。

私はいつも孤立感に苛まれていて、他人と一緒でという連帯感はあまりないので、苦しいのですがーそれは私が特別な人間ということではなく、他人と感覚的に本質的に疎通ができてないまま、言語と類推で近づこうとするためなのでーだから珍しいことです。

理解とか連帯より感覚的な何かです。

 

私が感覚を揺さぶられたチェルノブイリ風の谷のナウシカには、マスクが必要不可欠なアイテムです。

私たちは私たちの肉体では安全に生きられないような状況を作り上げているのかもしれません。

私はたぶん人間世界にたいし「ほどほど」「大丈夫」という心理的保護膜をあまり持たずに生まれたため、非常に頭が混乱しやすいのかもしれない。頭が混乱すると、はっきりと焦点が合わなくなり、思考が散乱し、ぼんやりした人になります。

だから、私は他人との壁が別に特性として作られているのではないか。
しかし、表情は平静を保とうと、どちらかといえば、困った笑いの顔になります。
そして、理解されたいという願いから必死に丁寧に真面目に話します。

すると単に困った笑い顔の真面目な人にみえ、いまいち深刻さが伝わりません。

そうして今でも、苦しんでいます。

本当は必死に理屈をつくってるときは助けてほしいのです。
私の脳みそは、杓子定規なところがあり、そんな表現しかできません。

で、気づかれないまま、頭痛や不安が悪化し、いろいろな友達や人に本当にしんどい様子がわかってもらえなくて、悲しいのです。