細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

GOMESS“障害”という曲が指し示す人間の裸形の姿

GOMESS“障害”

https://youtu.be/oKRAsKfJKRU

いわゆるカッコ書きするところの「障害」について考えるならば、「その人自身」の「命」がこの世界との関係に「苦しんでいる」ということから考えねばならなかった。
しかし、「当事者」や「対話」という言葉がやかましく叫ばれながらも、私たち人間そのものが誰もが一人一人の生が「徒手空拳」であり、「途上」であり誰もが「プロ」ではなく、一人一人が一人一人の「命の主人公」を目指す未完成で死んでいくということが忘れられている。

そのような時にGOMESSというラッパーは、まるで独白のようなまっすぐなリリックで、「障害」というものの本質を描き出していた。
若く深刻に悩んだ彼は、正面から自分が世界とうまくいっていないことに気づく。
そして家族、友人、多くの人間の困惑と、自分の困惑がぶつかり合う相を明晰に見つめる。
自分のなかにたしかにある「隠しきれない」何か、命そのもの=「生涯」全体が、カフカの小説のように、なぜか世界から「拒絶」され、自らにも違和やトゲとなり、苦しむ。
おそらくそれが「障害」と言われてしまうものではないかと。
だからカフカの小説がpvに登場するのは偶然ではない。
人間は本質的にはそのひとはそのひとでしかいられない。
しかし、眼差しが来て、「普通じゃない」と私を嘲笑い、みにくいものと恐れ、その否定を埋め込み、私はどこにも居場所がなくなってしまう。
ほとんどの場合人間は、どこかで「仮面」や「フリ」をすることなしに生きてはいけない。
すべてを露にすれば「世界」は私を「障害」とみなすという眼差しが存在し、「優生思想」(望ましい生とそうでない生を社会が決められるという考え方)がつきまとっている。
それは人間の内側にも外側にもその間にも浮遊している。

多くの人は「社会性」というものを持つから、いつか他人や社会の規範に従い、「普通」になっていく。
しかし、どうあがいても、自分は自分でしかありえない。
自分はただ単にずっとこうであり、こうでしかありえないということがいつの間にか否定されていること。
そのことを自覚させられ、それと向き合い、いつか本当にありのままで存在できる世界に移行したいと願うこと。 
その中で世界が勝手に押し着せる平均値の彼方に移行し、その人でしかありえないような、独自の「生涯」を生きること。

人間は、人間と対峙している。
心や体をボロボロにしながらも、ありのままでしかいられない葛藤を世界に突きつける。
ありのままでいいだろう?
愛じゃなくても、何がなくても、私は私で何が悪いのだ?

筆者の私もまたその苦しみにずっと苛まれている。
なぜなら、拒絶された自分には、拒絶が深く埋め込まれているからこの拒絶をめくりかえすのは、鏡なしに自分の背面を見ようとするくらい困難に思える。
カフカの「橋」という小説がある。
「橋」である主人公は深い谷にかかり、顔は谷底を向きとてつもなく下に流れる川面をみつめている。
あるとき、自分を渡るものがある。
その顔をみようと振り返ったら、もんどりうって、川に落ちてしまう。
「世界にとっての障害者」というとき、橋を渡るその面影がわずかにちらついているように見える気もするのだが。