細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

維新、自民、トランプのバラエティショー的共犯関係の作り方とその排除的な暴力性のステルス化ー大阪市廃止に反対していて感じたこと

維新の手法というのは、テレビのバラエティや24時間テレビのような、ネタとガチを故意にわからなくさせて、人を集団催眠に陥れて、不可解な企画やいじめ的暴力やお涙頂戴を正当化し、視聴者を共犯関係にもちこみ、理不尽なことを「面白い、いっぺんやってみよう。細かいこというな!」みたいに実現するやり方なのかもしれない。

トランプもそんなやり方で、人を煽動し、人々も鬱屈した不満や差別的暴力をあからさまに吐き出す口実ができたかのように動いている。
トランプ、自民、維新は、明らかに、人々との共犯関係を作り出している。
天皇制も、見た目は違うが、人々に共犯関係を内面化するような、演劇的構造があるだろう。

テレビではそれでも、テレビの向こう側とこちら側の違いがぎりぎりあり、スイッチを切ることができるが、実際の都市でやると、めちゃくちゃになり、実害が出る。

バラエティショーは、幻想であり、現実に適用すべきではないが、いじめ然り、テレビのバラエティなどの影響は深刻で、本当に集団で人を殺してしまう。

「面白い」とか「人気がある」ということで免罪できない。
私はおもしろくない。
なぜなら、それで仲間はずれになったり、暴力を振るわれたらどうしよう、他の人が振るわれたらどうしようと恐怖と怒りを感じるからである。

削減や制度の破壊を大衆の娯楽にしたのが中曽根や小泉である。

維新はその汎用版とおもえる。

いずれも大衆の反逆を恐れ、そのちからを削ぐために、大衆の隷属感情や恐怖心を刺激し、大衆の自己処罰感情や相互不信、相互監視を「ポップなワンフレーズ政治」で進める方法だ。

維新や自民がマスコミに守られているようにみえるのは、マスコミやテレビの手法と、現実に行われている手法が同じだからというのもある。

自分たちがそれで視聴者を操作してきたから、維新や自民が悪いとはいえなくなっている。

トランプに対してアメリカのマスコミに批判ができるのは、トランプより「アメリカの民主主義の理念」(それが素晴らしいものかどうかは様々な評価がありうる)が当然大事であり、それをチェックする自負が彼らに、備わっているからである。

日本においては、権力者とチェックする側の緊張関係が弱すぎる。

この原因はたぶん、日本の侵略と天皇制というポイントに、全体的にあまり切り込まなかったからで、天皇制の内面化を摘出して分析できてないからだろう。

 

 

 

例えば安倍政権にもある種のバラエティ要素があり、トンマな独裁者だから大丈夫と人を油断させて、暴挙をやっていたような気がする。
菅がいまいちにみえるのは、安倍の独裁ショーで、ディレクターのがわだった人間があからさまに出てきて番組をしきり出したからである。

つまり安倍はあの少し滑稽な感じでへらへらしゃべってやっていたことと、菅は同じことをしているが、ディレクターがぶっきらぼうにやりだしたら、筋書きが浮き出して見えるのだ。

しかし、やっているのは、いずれも暴力である。