細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【詩作品】自嘲/人間ためらいリローデッド

‪〈自嘲‬〉

‪おまえを問えというに‬ ‪おのれを問えというに‬ ‪せず‬ ‪詰問と罵倒と仲間うちと仲間ぼめの電磁的空間で‬ ‪大声あげ闊歩し‬ ‪小声で人を殺める‬ ‪生活の無難な投稿‬ ‪日々の感慨で誠実ぶり‬ ‪気を衒う警句‬ ‪明るく空回り‬ ‪動物や食事‬ ‪かわいいといい‬ ‪うまいと笑う‬ ‪悲喜の波間に‬ ‪血塗られた国旗‬

〈人間ためらいリローデッド〉

生きているから なんだかわからない なぐさめとはいえ 星は形骸 強くなる雨に 打ち捨てられる暮らし 切なくても愛し合い 何か大切にし 大切な顔の中に 無常な微笑みが浮かぶ

ありがとう こんなに僕は疲れていた こんなに僕はうまいうまいと 星の川を食べた あらがえない 危ない世の中で あの人もこの人も 優しさを探している

優しさの部屋は秘密の鍵があるが 僕の優しさは野ざらしだ 優しさは雨や風にさらされ それだけ素朴になる 秘密の部屋に入れない人々にも たぶん 強い愛と優しさがある 誰かを幸せにしようと ずぶぬれの人が泣いている

誰もが野ざらしだ 幸せであり 死に瀕している

何千年も世界を辱しめ 何千年も人間は恥さらす この後にも先にも 僕は笑うだけだ 乾いてひとのぬくもりに抱かれて 笑うだけだ

【提言】反安倍だけでは足りない。人権はなくてはならないもの。人権を軽視する社会体制の問い直しをー左派リベラルだけでなくノンポリの人々もわかってほしい

野党共闘は反安倍という枠組みだが、単に反安倍でよいのか、私は前回の参議院選挙以来考えてきました。 反安倍は大事で、安倍は反人権の象徴ですが、それだけでは足らず、人権を脅かす体制全般を問い直さねばならないと考えています。 相模原事件と原発避難者切り捨てが決定打。

慎重なので、議会政治は全部捨てるというのではありませんが、今の民進党、国会を見る限り、与野党の枠を超え、ナショナリズム、排外主義が浸透し、脱原発も危うくなっています。 日本の広範囲な市民がアジアの反原発や非核の動きに連動して、日米安保体制と原発を問い直さないと戦争になり兼ねない。

野党の中にいるいくらか良心的な議員さんたちがいくら頑張っても、民進党の崩壊を食い止めることはできないのではないか。むしろ、維新や民進党右派がヘゲモニーを握る恐れが高いのではないか。それを免れても分裂や弱体化は避け難いかもしれない。

あなたは野党に対する見方が甘すぎたのだと言われれば、返す言葉もあまりありません。自分で納得するまで考えて、反安倍だけでは足りない、反人権的な体制を問い直さないと、相模原事件、原発避難者切り捨てを見て、深く感じました。

沖縄基地問題も、岩国の米軍基地強化、オスプレイの全国化、宮古島自衛隊配備を見る時、沖縄への基地集中を含んだ日本列島全体の軍事要塞化として見る必要も出てきたと思います。

沖縄県知事が基地反対に有効打をなかなか打てない現状をみると、基地反対をやはり当たり前ですが、日米安保反対の巨大な構図の中に起き直さねばならないのではとか。

むろん私たちだけが日本の悪しき反人権的な体制を打破したいと希望しても、多くの日本人はミサイル怖い、天皇好い人というところにいるので、彼らにも人権が大切だと理解してもらっていかないといけないと思います。 しかし、今は大衆におもねるか、大衆を嫌悪するかみたいな両極端になっている。

むろん私も障害者や原発のことに関心を持たない日本の多数派に苛立ってます。 しかし、私が感じるのは、日本の教育、福祉、労働、マスコミどこも、疲弊し、政府のシステム改革により右傾化させられています。 翼賛は日本人がだらしないだけでなく、政府の強制も伴う。

つまり、日本の、あらゆる現場が疲弊し、また、政府財界のネオリベ保守政策で根本的に力を奪われ、私たちの誰もがその日暮らしの生き残りで視野が狭まっている。その中で原発事故や日本経済の悪化が、人々を不安にさせ保守、排外に追いやっているのです。

もちろん日本人は私もそうであったように、戦争責任問題に無自覚(最後にまた書きます)だからこうなりやすい面があります。 さらにここまで来たのは、日米安保体制を守りたい、原発をやりたい政府のネオリベ保守政策が30年続いたことにもあると思う。

ですから、セクハラやパワハラに苦しむ現場の若者や非正規のみんなが、声を出していいんだと、エンパワメント励ましあう必要もあるし、セクハラやパワハラは、日本の家父長制と連動し、政財界が維持したがってる性差別に問題があると知ってもらう必要がある。

この20年以上、教育は、私のような団塊ジュニア世代が大阪で受けた同和反戦教育とは、違うものになり、ガタガタです。若い人々も、反戦の言説に触れられないから知らないだけという面もあります。

自分たちが、セクハラやパワハラ体罰やいじめを受ける背景には、戦争の反省をしないで、原発をやる非常に非人道的な体制があるということもあまり若い人は知らないと思う。

若者や子どもたちは、「知ること」「自分で考えてよいということ」「嫌なものは嫌という権利があること」など、基礎的な人権というか、自分を大切にする方法や思想を教わってない、大人も知らないということが、今の社会の腐敗と右傾化の根幹にあると思う。

左派リベラルですら、女性への暴力や障害者差別に鈍いのは、自分たちも自分たちの権利を具体的に大切にする習慣が薄いからです。 最近、自分の発達障害について考えたり、障害者の事業所に遊びに行ったりして、それで再認識した。 みんな自分を大切にしてない。だから他人をさらに大切にできない。

こう考えると大衆に指導してやる、わからないやつはバカとなるのでも、大衆におもねるのでもなく、私たちが私たちの人権を大切にし、エンパワメント励ましあい、セルフケア自分を大切にするという実践をみずからやり、周りに広げることが大切。 これは、左派リベラルのすべての人に言いたいです。

私たちの社会はここ20年で、セクハラやパワハラや働きすぎを問題視できるようになった。これを原発や基地や天皇、つまり政治経済の人権はく奪体制の認識に広げるには、エンパワメント、セルフケアなどを通じて、人権を実感する。ということが大事なんじゃないでしょうか。

いろいろ足りない点、認識不足の点があるかもしれませんので、さらに考えていきます。今は某障害者の事業所に遊びに行くことが増え、自分が暮らし障害について考える場所を見つけていくのを頑張ってます。 運動への出入りが減る時もあるかもしれませんがご理解ください。

最後に、現在の原発事故、軍拡、企業の過重労働、社会の保守化を正すには、明治近代日本が何をできなかったか、日清戦争から太平洋戦争敗戦に至る戦争体制の中で、天皇をはじめとした指導者たちの責任が十分問われていないからそれを問い直すことが必要です。 明治近代日本は富国強兵で、能力主義、環境破壊、排外主義を一体に進めましたから。 天皇を中心とした国家主義は人権を大切にせず、現在もその名残があると感じます。

戦前戦中の国体を引きずった戦後日本、これからの日本が、権威主義、企業支配を是正し、人々が基本的人権を尊重され、環境を壊さないで生きるために、戦前戦中戦後日本の過ちを認識し改善することが必要です。

【詩作品】境目がないから素敵な

言葉を 軽んじて 言葉に足をすくわれ 言葉を 重んじて 言葉に図星を突かれ

絶望は明かりて 夜は暗くて 汚れが落ちなくて たどり着いて まだ先は長くて 涙を拭いて ぬぐう手が ただれて 鼻水を君に見られた ああ 君に見られた 頭の形が 素晴らしいのかもしれない 手のひらに シワとシワを合わせて 見える向こう側に 月が見える

閑散とした広場に 大きな絵を描いて 寂しく過ごす 私の寂しさは難解なのかもしれない ただ泣いているだけの命だったのに 言葉を身につけて 言葉を振り切ろうとして よりキツく締まったよ

そこから移動して

カーペット敷きの部屋で 飛び跳ねる猫を見る あちらにも こちらにも うまく近づけない 自信がないんだよ 自信がないのかな

自信なんて 考えなくていいよね ずっと変わらずに ここから見ていただけなんだ 近づいてはならない という掟を 自分に課し その掟は 世界の律法であるように 思えた

近づこうと 遠ざかろうと すでに結界は破られている

薄暗い欲望だけではない 僕の言葉を溶かす 強い液体が 流れ出している

世界は液状なんだ 雨の夜に 境目がないから 危ないんだ 境目がないから 素敵なんだよ

大阪維新の吉村市長「総合区とか作戦練って進めてますけど、山の頂上っていうのは特別区やって都構想やって、経済成長するような日本を引っ張るような街にしたい。そりゃカモフラージュすることありますけど、それは作戦」発言

「総合区はカモフラージュ」 吉村大阪市長がパーティーでの発言を謝罪|MBS 関西のニュース 「 大阪市をなくして区を格上げする「特別区」と大阪市を残したまま合区する「総合区」。両方の検討を進める大阪市の吉村市長が「総合区はカモフラージュでやっている」と取れる発言をしていたことがわかりました。

 問題の発言は5日行われた維新のパーティーで飛び出しました。

 「この任期、総合区とか作戦練って進めてますけど、山の頂上っていうのは特別区やって都構想やって、経済成長するような日本を引っ張るような街にしたい。そりゃカモフラージュすることありますけど、それは作戦ですから」(吉村洋文大阪市長

 本当は特別区を進めたい吉村市長が総合区の検討をカモフラージュとするなら、市民や議会に失礼な話。6日の議会で共産党の議員がこの発言を問いただしました。

 「『この任期、総合区とか作戦は練って進めてますけど、山の頂上は特別区。カモフラージュするときはありますけどそれは作戦』こういうふうにおっしゃったと」(共産党 山中智子大阪市議)  「僕は別にカモフラージュって言葉使ってませんから。そういった言葉使われるのはどうかなと。いささか心外ではあります」(吉村洋文大阪市長

 ところが確かに「カモフラージュ」と言っていた吉村市長。7日、謝罪したうえでこう釈明しました。

 「僕が総合区の案を作ったり住民説明会であるとか、特別区を応援してくれる人からすると『なんで市長がそんなこと言ってるの?』と。僕のところに(意見が)来ます。そういった中で僕自身はそれぞれ特別区特別区ベストな案を作って、最後は市民に判断してもらうという思いです」(吉村洋文大阪市長

 しかし、吉村市長は本当にベストな総合区案を作る気があるのか?不信感が残る結果となりました。」

http://www.mbs.jp/news/sp/kansai/20170907/00000067.shtml

吉村市長が総合区を進めるのは、都構想の「カモフラージュ」だと取れるような(他の解釈は非常に困難に思えるような)発言をご自分で言いました。 はあ、そうなんですか。 ご自分でおっしゃったんだし、「作戦」というタームで念押ししておられるから、私たちも誤解の余地があまりありません。

大阪市民に本当の目的である「大阪市廃止=都構想」を悟られないために、「大阪市存置=総合区」を公明党に提案させると、そういうことですか?違いますか? どうなんでしょう。ちゃんと説明していただきましょう!

総合区でカモフラージュしないと進められない都構想ってことですか? 私は吉村市長の深遠なお話の真意を理解したいだけなんです。

大阪市を廃止するって、特別区だ総合区だを越えて大阪市民、府民に大きなショックを与える事実で、さすがに「優秀」な吉村市長もお気づきなのかなと推測しました。 違いますか?これも「誤解」ですか。「誤解」の余地はありますか?

【詩作品】話したいことが 思い浮かばないくらい 懐かしい話がしたい

心が息苦しく 泣いている 秋の入り口の 雨に 半日眠っている 昼まえ体操をして 腕立て腹筋 疲れた体に ゆっくり血が流れる ぴりぴりと 足に血が流れ始め 内臓が揺れ動いている

しあわせになりたい と 願う願うのです

しあわせになりたいのに 空を見つめ ため息をついた こんな暗い空の限り無さに もう嫌になりながら 雨音が私を刻む そうだ ぱちぱちぱたんぱたんぱち そうだ 詰め合わせた悲しみのこの 命を前に一つ一つ出さねばならない 進むことに意味はない 時間の重なる 川の流れる 水が一つ一つ私たちを 打ちつける

君に会えなかった 君、どころか、ひとに会えなかった ひと、がわからない 私が人かわからない その場所から じりじり歩いてきた

君が失ったもの 君が手に入れたもの なんて、わからない 私はただ生きてきた だけだよ

屋根に打ちつける雨が 私を許してくれるのかな 光がまばたく

君を待っていると 車が何台も通る 想像の世界 想像の悔しさ 君のことも 彼のことも 彼らのことも 石も草も 父祖のことも 国のこともわからない

私は白紙なんだ 何かを知るたびに 私の中に空白が増える 知ることによってしか たどり着けない無知がある

白紙の私が 空白の言葉を話す 穴だらけで 口から念仏が行列する 話したいことが 思い浮かばないくらい 懐かしい話がしたい

雨が また強くなる なぜわかる 雨が 雨が

柏崎刈羽原発の敷地内活断層の懸念。規制委と東電は地質学者と議論を継続すべきで審査合格は性急かつ危険。国と電力会社は原子力発電国策の過ちを認めているのか疑問でならない。

開いた口が塞がらぬ。あまりに反省なき政府、東電柏崎刈羽原発6,7号機審査合格へ - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2017/09/01/214725

昨日審査合格の方向と聞き、あまりにショック。 批判する記事を書きました。

さらに今日調べておりましたら、なんと新潟県の地質学者たち「柏崎刈羽原発活断層問題研究会」が柏崎刈羽原発の敷地内に活断層を指摘しています! しかも「4回目となる要請書では、学術的な問題点を指摘し、規制委の聞き取りにも応じる意向を示したが、これまでに反応はない」と規制委は、研究者たちの指摘に誠実に応じてないことがわかりました。 これは5月30日の記事で、3ヶ月前から議論は進捗したのでしょうか?

柏崎刈羽原発:断層審査4回目要請 規制委に研究会 年代の主張補強 /新潟 - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20170530/ddl/k15/040/037000c‬ ‪「柏崎刈羽原発‬ ‪断層審査4回目要請 規制委に研究会 年代の主張補強 /新潟‬ ‪毎日新聞 2017年5月30日 地方版‬

‪ 東京電力柏崎刈羽原発敷地内の断層が「活断層の可能性がある」と、地質学者で構成する「柏崎刈羽原発活断層問題研究会」は29日、原子力規制委員会に、断層の活動年代を科学的に審査し直すよう求める要請書を提出したと発表した。4回目となる要請書では、学術的な問題点を指摘し、規制委の聞き取りにも応じる意向を示したが、これまでに反応はないという。【内藤陽】‬

‪ 東電と研究会には、断層が通る地層に含まれる「刈羽テフラ」と同研究会が柏崎市内で見つけた「藤橋40」は、同一の火山灰との共通認識がある。だが、年代は東電が「20万年前」と主張、研究会は「12万~13万年前」とし、見解が異なる。‬

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‪ 研究会は現地調査を踏まえ、同市軽井川の12万~13万年前の地層で見つけた火山灰が、藤橋40より下にあるものと化学組成が似ていることから、刈羽テフラの「12万~13万年前」を補強するものと提示する。一方、東電は軽井川と藤橋の火山灰を「同じものと断定するのは難しい」と反論している。‬

‪ 記者会見で研究会の立石雅昭・新潟大名誉教授は「規制委は東電の説明をうのみにせず、問題が指摘されているのだから、それを解明する努力をすべきだ。それが県民に対する責任だと思う」と訴えた。」‬

研究者たちは、活断層の存在を示す刈羽テフラが、「藤崎40」の直下にある火山灰と成分が酷似し、13万年前のものであるとしています。 つまり現在柏崎刈羽原発がある場所に13万年前からの活断層が存在する証拠であると。 これだけ新しい活断層があれば、規制委の新規制基準に適合しない、不合格の可能性が出てきます。 東電はそれに対し、20万年前のものだと反論しています。 柏崎刈羽原発中越沖地震が襲い、敷地内に段差ができケーブル火災を起こし、建屋の揺れから燃料プールから水が漏れました。 その教訓から当時の新潟県泉田知事は、東電に震災対策を要求し、福島第一原発に免震重要棟が出来、福島の事故対策拠点になりました。

これまでの経過をたどりますが、重大な懸念が提起されてますから、規制委は、田中委員長の退任に関係なく、科学的に十分な議論を続けるべきです。東電や規制委は、新潟県の地質学者団体と十分に議論すべきですから、予定されている審査合格を出すべきではないのではないかと私は考えます。

4月18日の記事。

柏崎刈羽原発:敷地内に活断層か 13万年前以降に活動 -毎日 https://mainichi.jp/articles/20170418/k00/00e/040/240000c 「新規制基準では12万から13万年前以降に活動した可能性のある断層は活断層と評価されるだけに…再稼働の判断に影響を与える可能性」

4月21日の記事

「全面的見直しを・・研究会メンバーで新潟県の技術委員会委員、立石雅昭新潟大学名誉教授の話 

 研究会は昨年1月にも、東電の公表資料から藤橋40と刈羽テフラが同一の可能性があると指摘し、規制委に検証を求めていたのです。規制委がそうした指摘に真摯(しんし)に向き合っていないことが問題です。これまでの調査・解析結果を全面的に見直すよう、申し入れたい。

(「しんぶん赤旗」2017年4月21日より転載)」 http://jcpre.com/?p=13652

4月27日東京電力資料

東電の主張 「 当社は、広域に分布した火山灰の確認、地層の堆積の様子、化石分析など様々な角度から分析を行った結果、刈羽テフラは約 20 万年前の火山灰と評価しています。 〇当社の評価結果は、原子力規制委員会からも概ね妥当と評価」 http://www.tepco.co.jp/kk-np/data/publication/pdf/2017/29042704.pdf

5月27日の記事

柏崎刈羽原発活断層問題 東電本部長「議論の余地なし」 柏崎、刈羽で説明 /新潟 - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20170527/ddl/k15/040/102000c姉川氏は…「もう少し主張の根拠が明確になれば、具体的な議論の仕方についても生産的な話し合いができる」」

5月30日の記事 https://mainichi.jp/articles/20170530/ddl/k15/040/037000c 柏崎刈羽原発:断層審査4回目要請 規制委に研究会 年代の主張補強

「4回目となる要請書では、学術的な問題点を指摘し、規制委の聞き取りにも応じる意向を示したが、これまでに反応はない」

特に、東京電力福島原発事故の被害者に十分な補償を行わず、莫大な訴訟を抱えていますし、政府を通じて、原発事故費用を税金に転嫁しているわけです。また旧経営陣の刑事告訴も終わっていません。 本来ならこれだけの大事故を起こした企業は、社会的経済的な責任があり、返済不能な負債がありますが、政府は、東電の再建と賠償資金の補填を同時に行うスキームを立ててしまいました。 ゆえに東電は普通の企業なら倒産する事故を起こしながら、建前では補償のためだといいながら、経営再建し再稼働しようとしています。 原賠機構にしろ、規制委にしろ、東電の再稼働を助けることになっています。 しかし、まだまだ福島被害者は苦しんでいますし、国や電力会社が原子力発電について根底的に姿勢を改めたとは見えません。 その上再稼働とは、誰しも納得しがたいのではないでしょうか。

夏休みを終え死にたい子どもになんて話したらいいか、決まった答えなんてあるわけない。決まった答えがないこと、枠にはめないで必死に生きる中に生まれる問いに正直になりたい

人間の生き死にを誰が決めれるだろう。誰も決められない。人間が生きている間にする行為や言葉はいくら賢ぶったとしても、決定的な意味を持たないのだ。

誰も決められないからこそ、いろいろな取り組みがあり得るのだ。

「学校に行こう」とか「学校に行かなくていいよ」とか、そういう是非を議論したり、推奨できる行為や非行為があると思うということ自体「学校的な言論」である。

そんな学校的な言論こそいらない。 大人であれ、子どもであれ、まず学校なんかより、必死に生きている人がいることが大事なのだ。

必死に生きているからといって、絶望して死ぬかもしれないし、なんだかわからないで生き続けて、やってきたのかもしれない。 どうなるかはわからない。だから生きることはすごい。 なぜか今こう生きている理由を誰もはっきり語れない。 それがすごい。

まず、誰もが必死に生きているとわかると、比べるとか比べないとかではなく、なんとか生きているだけなんだとわかると、なぜ頑張るか、頑張らなくていいのか、なぜ愛するのか、なぜこの場所にいるのか、問いが深くなる。 問いが深くなることが大事だ。 答えより問いは広がりを与えるからだ。

叫んだり、黙ったり、抱き合ったり、軽蔑したり、笑ったり、君になんて言っていいかわからなくて泣いてしまったり。

それらはすべて「学び」である。「学びの場所」である。 何もかもから私たちは学べる。 なぜなら人生に決まった意味などないからだ。

私はいじめられても辛抱して学校に行き、ズタズタになった。 今は好きに生きたいと少し思えるようになってはいる。 なぜ生き延びれたかわからない。 運が良かったからなのだろう。 そうとしか言えない。 わからないことだらけだ。 説明なんかつかなくていいじゃないですか。

今絶望し死にたい子どもがいて、私のような子どもがいて、私はかける言葉はわからない。わからないからもがいて、もがいた姿を人に見せるしかないだろう。 必死にやらないと、誰も信じないから。

簡単には誰も信じないということに、人間の思考や感覚の自由がある。 舐めてはいけない。

私たちは人間を舐めすぎているのだ。

それが私たちの絶望の正体だ。