夏休みを終え死にたい子どもになんて話したらいいか、決まった答えなんてあるわけない。決まった答えがないこと、枠にはめないで必死に生きる中に生まれる問いに正直になりたい
人間の生き死にを誰が決めれるだろう。誰も決められない。人間が生きている間にする行為や言葉はいくら賢ぶったとしても、決定的な意味を持たないのだ。
誰も決められないからこそ、いろいろな取り組みがあり得るのだ。
「学校に行こう」とか「学校に行かなくていいよ」とか、そういう是非を議論したり、推奨できる行為や非行為があると思うということ自体「学校的な言論」である。
そんな学校的な言論こそいらない。 大人であれ、子どもであれ、まず学校なんかより、必死に生きている人がいることが大事なのだ。
必死に生きているからといって、絶望して死ぬかもしれないし、なんだかわからないで生き続けて、やってきたのかもしれない。 どうなるかはわからない。だから生きることはすごい。 なぜか今こう生きている理由を誰もはっきり語れない。 それがすごい。
まず、誰もが必死に生きているとわかると、比べるとか比べないとかではなく、なんとか生きているだけなんだとわかると、なぜ頑張るか、頑張らなくていいのか、なぜ愛するのか、なぜこの場所にいるのか、問いが深くなる。 問いが深くなることが大事だ。 答えより問いは広がりを与えるからだ。
叫んだり、黙ったり、抱き合ったり、軽蔑したり、笑ったり、君になんて言っていいかわからなくて泣いてしまったり。
それらはすべて「学び」である。「学びの場所」である。 何もかもから私たちは学べる。 なぜなら人生に決まった意味などないからだ。
私はいじめられても辛抱して学校に行き、ズタズタになった。 今は好きに生きたいと少し思えるようになってはいる。 なぜ生き延びれたかわからない。 運が良かったからなのだろう。 そうとしか言えない。 わからないことだらけだ。 説明なんかつかなくていいじゃないですか。
今絶望し死にたい子どもがいて、私のような子どもがいて、私はかける言葉はわからない。わからないからもがいて、もがいた姿を人に見せるしかないだろう。 必死にやらないと、誰も信じないから。
簡単には誰も信じないということに、人間の思考や感覚の自由がある。 舐めてはいけない。
私たちは人間を舐めすぎているのだ。
それが私たちの絶望の正体だ。