細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

天皇が安倍総理よりマシというのは、倒錯ではないでしょうか。天皇の戦争責任は「深い反省」で済まされるものなのでしょうか。

 


終戦72年、追悼式に6200人 首相、加害責任触れず:朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASK8G3G93K8GUTFK005.html
天皇陛下が「おことば」を述べた。「深い反省」という表現を3年連続で使い、「戦争の惨禍が再び繰り返されない」こと」

このような記事を見て人々は、天皇はエラく安倍総理はダメだと思うのかもしれない。
果たしてそうか?
天皇の「戦争責任」は「深い反省」で済むのだろうか。
倒錯があるのではないか。

天皇と総理であれば、当時の地位として、天皇統治権全体を総覧する地位で、神格さえあった支配者で、総理はせいぜい行政長である。

現在は天皇は象徴と化しているが、太平洋戦争後、極東軍事裁判が下した判断は、天皇はそもそも訴追すらされていない。
アメリカ以外の中国やオーストラリアなどは天皇を戦犯として責任を問うという論調であったにもかかわらず。
他方戦時の総理東条英機は死刑である。
あまりにも不公平な処分である。
天皇が戦局をどのように把握していたかは様々議論があるものの、国家の最高責任者が無罪放免であったことの歪みのツケを私たちは今払っている。

安倍総理は、確かに論外だが、天皇明仁は「深い反省」と述べるにとどまっている。
天皇裕仁の戦争遂行責任、天皇明仁戦後責任は反省で済む話なのか。
一度も地位を下りるなどの責任らしい責任を取っていないわけだから、反省より必要なのは、天皇の責任を人々が議論する機会、場所であり、議論を経てくだされる天皇に対する具体的な処分なのではないか。
それは天皇が人気者であるかに関係なく、いやむしろ人気者で人格者と言われるからには通過しなければならないように思える。

天皇という存在が、私には日本の平和の象徴というより、「不透明な日本の平和の象徴」に思える。
そのような不透明さが、安倍総理の不可解な改憲姿勢やデタラメな閣議決定にもあらわれている。
天皇という存在が、私たちの民主主義や主権概念を不確かなものにしてはいないだろうか?
なぜなら、近代民主主義とは違い、天皇世襲制であり、世襲制により政治的地位を築いているからだ。
これは生まれによる差別を禁じた日本国憲法に矛盾しており、また、戦争指導者の子孫が天皇の地位につくことで、日本の平和主義を不透明なものにしている。
安倍総理A級戦犯容疑者の子孫であるのと同じようにそれは問題であるように思う。


少なくとも安倍総理より天皇明仁がマシという倒錯から私たちは抜け出すべきではないか。