細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

日本政府の新型コロナ国内対策のあまりの不備と明らかな統制への志向を憂うー政府における命と権利の保障と民主主義、説明と同意の不在が不安の根源

ずっと軽症者にたいする検査不要論に違和感があり、考えている。


(私は社会福祉士免許があるが、精神疾患で、この17年現場にいないので素人である。これは私の見解であり正解はわからない。みなさん各自自分で考えてほしい)

 

もちろん、仮に医療がパンクしたならそれは望ましくないと言う点に異論はない。
しかし、それを盾にして検査の拡大論を封じてしまえば、あとで相当な遺恨が患者や家族に残るだろう。

仮にある患者が、重症化し、後遺症がのこったり、死亡した場合、なぜ軽症のあの時はやく検査しなかったのかと言う話になる。

まず、日本政府は他のアジア諸国より、初動の対策費が十分でなかった印象がある。

それで高熱が続く人などに対して病気に対する検査が行われないというニュースが出てきて、軽症者が重症化するニュースもあった。

だから私はこう考えた。
①検査してウィルスの増加率や全体の数がわからなければ、事後に対策が適切か過小か過大かすら検証できない。
②軽症者が重症化するケースが報道され、私はだから早めに検査したほうが良いと思うのだが、その回答になるようなものがこの間政府から広く明瞭に示されたとは感じない。
 
この二つが最初に考えたこと。

さらにプラスして、軽症時への患者対応、急変の場合の対応について医療機関、保健所、関係機関が連携して、適切な対応法を考案し公表し、適宜改善してほしい。

③検査を拡大した場合の医療資源などの想定が政府から示されないから、議論のしようがなく、結論だけ専門家会議からつきつけられる。

また、検査についてもpcrで追い付かないなら、新型コロナ肺炎の臨床特徴について、政府や医療の研究機関が、中国やWHOのデータをまとめ、画像診断や問診、肺機能の検査などをやって、治療を開始し、pcrの検査の空きが出たら回せば良いのではないか。

 

④検査と対策をすると、一時的に患者数が増加し、対策が奏功すると減ると言う明瞭なケースが示されている。(中国)

さらにマスクについて
⑤マスクの需要と供給について、これも大まかな数が示され、製造体制や海外の寄付、政府備蓄なども含めて議論しなければ実態が把握できず、どのような分配にすればよいかわからない。
また、検査せず、誰が感染者かわからない現状があり、感染させるリスクを確認できない、から、不安が広がる側面もある。また、マスクがまったく効果がないわけもなく、自助努力でガーゼマスクや自分が縫ったりして、できる対応をする人もいる。

マスクを高値で販売する不届きものもいる反面、多くの人はマスクについて、医療や介護の施設にはやく充当をと考えているに違いない。
治療者と患者が防護されないままでは、まさに危険。
私は長らく精神科通院しており、社会福祉士免許もあるから院内感染対策の重要性は、コロナの事態でも、ツイートなどしてきた。
その際マスクは本当は防護効果がないなどと論ずる必要がない。
ならばなぜ医療スタッフがマスクをするか、その意味さえ否定している。
マスクは100%ではないが、呼吸器をフィルターど遮る力はあるのは常識で考えればわかる。
マスク、手洗い、うがい、消毒と対策を組み合わせ、感染確率を下げるので、ゼロか百かではない。

つまり、単にわがままで無知な人びとが医者に押し掛けるのが危ない程度の絵面で医療崩壊だから検査抑制と言うのはあまりに乱暴なので、できる限り、検査をし、日本でのウィルスの感染動向を把握しなければ対策できないだろう。

検査をする際に医師の判断で、検査が要請できるようになった(私は賛成ですこれが基本)が、まだ適切に実施されておらず、医師が求めても、保健所が断るケースが複数日本医師会の調査で発覚した。

また、新型コロナウィルスの感染を検査していなくて確認できず、自宅療養を促すなどというが、重症化しないとは言いきれないのは重症化ケースがあることで明らかだと思う。

 

始めにインフルエンザや風邪と言う言い方で、ぬか喜びさせたために、WHOがそうではないと声明をださねばならなかった。

WHOや中国政府が、致死率3.5
%と言う数字を出しているのは武漢の初期の混乱を鑑み、対策ができない、対策が混乱すると、これくらいになると言う意味もあるだろう。
つまりは、予防原則をすすめることを推奨しているだろう。
実際、対策によって、中国は感染が落ち着いていると報じられている。

仮にできることをやっても、医療崩壊が起きるとしたら新自由主義的に医療の予算を削減し、医療スタッフや設備投資が苦しんでいるからであり、けして、患者が「くれくれ」だからだけで説明はできない。
財務省厚生労働省が皆保険を維持するために、今の患者への予算投入を控え、未来に残すと説明するとしても、今の人が健康を維持できないことにより、将来にわたる社会の活力の低下が起きるだろう。

話を戻すなら医療資源が足りず協力と言うならそれこそ、ありとあらゆるデータを詭弁ではなく説明し国会の議論にかけるべきだった。

そして、反論に耳を傾け、検査拡大の声を無視してはならなかった。

そのための時間はあった。
中国の大変な様子が報道されていた年末から1月だ。

しかし、1月に国会は、桜をみる会の総理の不誠実答弁が破綻をきたし、政権の責任で、政治停滞が起きたことは間違いない。 
パーティーをホテルで開いて、領収書や明細書が出せないなどあり得ない話だから。  

また、野党がウィルス対策の議論をじゃましたと言うのも間違いで与野党一致して、対策繁忙時の加藤厚生労働相の、委員会欠席も認めていた。

このような中で、検疫感染症としてしか対処しなかったこと、それにすら疑義があり、クルーズ船の悲劇はそれであること、厚生労働省や神奈川県職員、検疫官に感染がひろがったこと、さらにいち早く国内感染対策に切り変えなかったこと、指定感染症の指定さえ、野党に批判され、後手であったことなど、既に過去のブログで指摘している。

単に市民が無知ではなく、当初からの政府の姿勢が怪しまれていることまで含めて批判されているのであり、それは、心配ないとさんざんいっておいて、文科省にろくな連絡もないまま一斉休校要請をする支離滅裂ぶりをあらわす総理の姿勢の破綻が一番不安なのだとはいえる。

対策には説明責任がともない、その中で、疑問に答えながら、一つ一つ了承が必要である。
それを民主主義と呼ぶのだ。
しかし「一斉休校」の際に、保護者の休業補償の質問に「つまらないこと聞くな」と応ずる財務相や、文科省厚生労働省に丸投げで、パーティーやお誕生日会や会食にいって、閣内での分担に無関心な他の大臣や、記者会見で質問を無視して退席する総理にはそんな意識がないだろう。 

そのような失態の積み重ねが、不信を呼び、対策に対する説明や了解の手続きの不足、データの不足が不信を呼ぶのである。

人権と命について当たり前の尊重の眼差しを欠いたこのような姿勢は、なかなか他の国でもお目にかからない。
真剣さの欠如である。

真剣さの欠如に、私たちはとてつもない不安を覚えるし、それは原発事故の9年間、特に安倍総理のアンダーコントロール宣言には狭い意味での財界経済だけ考慮した、実態無視の姿勢にもあらわれた。

それは不確定なリスクであるウィルス感染の事態にも、真剣さの欠如、人権の軽視、民主主義の軽視と言う政治的リスクを追加する。

その意味ではその国がどのような政治をしているかで、感染症への人びとの心配を変化させると思う。

悪い政治のもとでは、危険の実態が把握困難である、一斉休校の議事録さえないのであれば、感染実態や様々な議論について、うっかり政府の議論がうのみにできなくなる。

 

また、今回浮かび上がった問題として、新型インフルエンザ等対策特措法の緊急事態宣言がある。

はじめ、安倍総理は緊急事態宣言について、新たな法を制定する考えでいた。

しかし、2012年野田民主党政権下で制定された新型インフルエンザ等対策特措法にも、緊急事態宣言があることに気づいた安倍総理は元民主党勢力の立憲民主党、国民民主党に協力させれば、緊急事態宣言を手にできると気付き、その改正案を、国会上程した。

しかし、他の野党が慎重論、反対論を唱えている。

2012年に日弁連が反対を唱えた新型インフルエンザ等対策特措法は、二年限度に緊急事態宣言を政府対策本部が布告した場合、感染症対策のほかに、集会や道路や施設の使用制限が可能であり、なんと国会事前承認ではなく「国会への事後報告」で、運用できてしまう。

野田政権の負の遺産だと考えられるが、原子力災害特措法も、緊急事態宣言が解除されておらず、他に国民保護法制も似た性質を備えている。

憲法改正なしでもかなり危うい状態であり、ここにさらに憲法改正を加えるなら、あらゆる法律の緊急事態宣言が憲法のしばりを解かれてしまう可能性さえある。

 

それ以前に安倍自公政権は、公文書を隠したり、説明が詭弁的であるなど、権力の恣意的運用の危険にことかかない。

 

記録を残す、説明し議論し、納得し、命の心配をするそのような当たり前を、おそらく根底的に作り直さなくてはならない。