細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【断章】共謀罪が示す社会の根底からの変化について憂える

共謀罪がわずかひと月ほどで施行と聞いて、彼ら支配層のオペレーションにとってどうしても必要な法律だと明確にわかった。
私はここ数年、もう時間がないと感じ、体力をつけたり、自分の障害について取り組んできた。
私たちが古い常識に縛られている限り、翼賛せざるを得なくなる日は多分すぐ来る。

 

私は家族や障害や労働や社会について、冷笑せずに、しかし落ち着いて自分事として、見てくださいと話し、自らブログやツイートをしてきた。
私も不徹底だからいつ妥協して悪しき流れに乗らないとも保証できない。
心の中で、前代未聞の世界に毎日嘆き苦しみながら、諦めずに生きたいと思ってきた。

 

私は、若い時死ばかり考えて、でも怖くて死ねなかった。

それから生きづらさをとにかく考え、癒したいと思ってきた。
人の思いやあたたかさに触れ、自分のバカさ加減に泣き、しかしなおも、自分の考えを話さないといてもたってもいられない。
私を愛し、教えてくれた人がいるからだ。

 

若い時に、花田清輝林達夫坂口安吾などに親しみ、戦時下で、なおも思考し、感じることを手放さないように生きようとした人を読んで20年くらい前であった。
あの時ですら彼らの洞察は実感された。
しかし今や実感では済まないのである。

 

林達夫『歴史の暮方』より

「時代に取り残された人間とは、私のごときものを言うのであろう。だが、それを寂しくも心残りにも思っていない。目前に見るこんな「閉ざされた社会」なんかにもはやこだわっている気持はいっこうにないからである。

時代が大きく膨れ上ったときに垣間見せるbêtiseないしsotiseの救い難き底知れなさに衝撃した人間のこころ暗さ! それに抵抗したりそれを弾劾したりする気力も挫けてしまう。私はますます自分が犬儒的になり、つむじが曲ってゆくのをどうすることもできない。

同じく心を動かされていても、人々と私とでは精神的風土がまるで違うのだ。人なかにいると、私はふと自分が間諜のような気がして来て、居たたまれなくなって席を立ちたくなることがある。何の共感もない。まったく人とは別のことを感じ、また考えているのだから。

こうして私は時代に対して完全に真正面からの関心を喪失してしまった。私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ、空語、空語、空語! としてしか感受できないのである。私はたいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。あまりに見え透いているのだ。

私はそんなものこそ有害無益な「造言蜚語」だと、心の底では確信している。救いは絶対にそんな美辞麗句からは来ないと断言してよい。

選良も信じなければ、多数者も信じない。みんなどうかしているのだ。(あるいはこちらがどうかしているのかも知れない。)こんな頼りにならぬ人間ばかりだとは思っていなかった。私のほうが正しいとか節操があるとかいうのでは断じてない。

ありのままの人間とは、だいたいそんなものかも知れないと思わぬでもない。それを愛することがどうしてもできないのだ。それと一緒になることがどうしてもできないのだ。偏狭なこの心持がますます険しくなってゆくのを、ただ手を拱いて眺めているばかりである。

私思うに、現代のような逆説的時代には、真の誠実は絶対に誠実らしさの風貌はとりえない。現代のモラリストは、事の勢い上、不可避的にイモラリストとなる。」

「生きる目標を見失うということ、見失わされるということ――これは少なくとも感じやすい人間にとってはたいへんな問題である。われわれは何のために生きているのか、生き甲斐ある世の中とはどんなものか――そんな問いを否応なしに突きつけられた人間は、しばらくは途方に暮れて一種の眩暈のうちによろめくものだ。

「よろしくやってゆける」人間は仕合せなるかなだ。だが、そんな人間のあまりにも多すぎるというそのことが、私にとってはまた何とも言えぬ苦汁を嘗めさせられる思いがして堪らなくなるのだ。」

 

                          *

 

私たちは「共謀罪」という法律の後ろにある「仲間はずれにする」仕組みと戦わねばなりません。
私たちはイジメという形で、その心理を恐怖を快楽を私たちは根強く刷り込まれ、強い側につかないとと他人を踏みしめるから。

 

共謀罪内心の自由を取り締まると。なるほど。しかしイメージが湧かない。
人間は、友達や恋人や家族や仕事仲間と話しをして仲良くなり、考えや気持ちを深め、協力し、何かを計画したり、楽しんだりします。
テロリストとそうでない人を分ける基準ないから監視して捕まえるかを警察が決めるんです。

 

共謀罪は、人間の基本的なつながり、連帯を根絶してしまう法律ではないでしょうか。
政府や企業は、自由に組織しつながられたら困るからそうした法律を求めたのでしょう。
放射能が人と人、細胞と細胞を引き裂くなら、共謀罪は人と人のつながりを断ち、政府が望む関係性しか許さなくなるのでは?

 

共謀罪が目指すのは、私たちの自由なつながりをジェノサイドして、望ましい組織、望ましい家庭、望ましい交際に押し込み、人びとをある方向に導くものかもしれない。
無数の森友や無数のレイプする人間を生み出し、それ以外を敵視させるのでしょう。

 

 

 

                                 *

 

大庭みな子「いずれにしても制度に反逆する人間は自分を認識し直した人間であり、連鎖的に同類の人間をつくり出す。-『男と女の生きる場所』」

https://twitter.com/threecrabs/status/875694285584080896

 

僕の言いたいことはこれに尽きます。
原発事故以降これは待った無しになり、共謀罪以降は、「自分を認識し直した人間」と「自分を認識し直したくない人間」との戦いになり、後者が恐怖から前者を排除する時に共謀罪が活用される恐れがあると思うのです。

 

なぜ「自分を認識し直」す理由があるかというとそうしないと生きている意味がないからそうするのであり、自ら生きる意味をつかもうと一度全てを疑い、自分を確かめるのです。
しかし、弱さから、あるいは生活から、優位性を手放したくないなどから「自分を認識し直し」たくない人もいます。

 

あなたが左派にいようが、リベラルだろうが、右翼だろうが、保守だろうが、「自分を認識し直し」たくないなら、もはやジ・エンドだと思うのです。
安倍晋三が漢字をかけないとかバカにするのは知的障害者不法滞在者や野宿者を差別しているからです。
この国の差別をなぞったら安倍は倒れません。

 

この国には、地位による差別、友達がいないものへの差別、結婚しないものへの差別、就職しないものへの差別、字を書いたり読んだりできないものへの差別、精神機能に不調があるものへの差別などが莫大に存在します。
これらの人びとを憐れんだり支援したりだけでも差別から逃れられない。

それどころか、差別されている者を支援する自分は、「多数派よりマシな自分」というものも、立派な差別です。多数派なんて本当はありませんし、マイノリティの仲間であるだけで上から目線になられても困ります。
「貴重な経験をさせていただいた」式の考えも微妙だと思います。本当はどう思ってるのかわからない。

 

私は知的障害者の支援者になれ、理解できていることがあたかも優位であるかのように錯覚することがありました。
しかし本来知的障害者が参加できない社会があるから、私が理解する人間として位置づけれるわけで、それは全然ベストではないのです。

 

このような話は共謀罪と強く関係しています。

共謀罪はもはや、単に狭義の賛成反対の問題だけでなく、むしろあなたがどの位置から話しているか、どのようなレッテルで思考しているかによって、取り込まれる度合いが変わるということが言いたいわけです。

また、法律なので、本人がどう心がけても、体制から強制力が働いて、人々を分断し排除する道具になるのです。

社会が根本的な差別的な価値観を軸に人々を互いに疎隔し、無理解に、孤立させていることが、人々を無力化し支配者の支配をたやすくしていることを私たちは一番考えねばなりません。

原子力発電や放射能汚染、共謀罪はそれがラディカルにあらわれると考えています。

いじめる側に立って、黙っていれば当面は楽ですが、体制全体が凶暴化し、みなさんが人殺しに加担させられる度合いは大きくなり、あるいは自分も命を捧げよと言われるかもしれません。

増えていく原子力発電の廃棄物、先細る社会保障、オリンピックによる社会的排除ナショナリズム

どこかの段階で、生き血を誰しもが捧げさせられるのでしょう。

命を捧げることは日本国憲法は是とはしません。

ゆえに憲法を改正してしまいたいわけです。

 

 

話を戻します。

 

差別を前提として自らを理解者、同伴者、必要な人間と位置づけるなら、自分が差別に加担してると思わなければ、その役割に嘘ができてしまう。そんな人が福祉にはたくさんいて、福祉の変革を遠ざけています。残念ながら、左派やリベラルにそんな人がたくさんいます。

 

私は自分が差別を担ってしか業務を遂行するしかないと気づいた時は、私が虐待サバイバーの恋人を理解できていない時と同時でしたから、私は矛盾だらけの仕事をする胆力もなく、また自分は本当には人の痛みをわかってないとも思いまして、精神的に破綻しやり直しをしなければならなくなりました。

 

私もまた弱く、寂しく、生きづらいだけの人間として、生きている意味を考えよう、詩を書いて、弱音を吐いて生きようと思いました。
それから13年は経ちます。
私が「自分を認識し直」す旅の途中にいて、感じたことをみなさんに伝え、新たに学ぶのが私の政治であり表現であり学びです。

 

自分の恋愛が破綻したこと、自分が仕事を受け付けない身体だと気づいてしまったこと、重い精神疾患を患うほどの偏りやつらさがあること、その結果、自分の心とカラダ、ぞくする社会を新たに「認識し直す」ように強いられたのです。
しかし認識し直し始めてから私は幸せになったと思っています。

 

 

このように差別を拒否するには心身ぐるみでの変化をともない、認識を根底から変える必要があるでしょう。

私はこのことを、私の友達や仲間に特に呼びかけたいのです。
みなさん、本当に聴いてますか。

今日お会いした若い友達には少しこのことが話せました。

 

私がこれを完全にできたわけでなく、答えもないのだからこれは終わりなき過程です。

あなたの不幸もまた自分を認識し直さないことから来るのかもしれませんよ。
エスブッダも自分を認識し直そうとした人だと私は思いますよ。

自分を認識し直す過程において、自分のあり方、社会との距離、関係を問い直すわけです。

自分の前提を問うと、認識も行為も当たり前には始まらず、必ず異質なものとの出会いによって、自分が新しくなることを伴います。

人は、変わらない部分を含みながらも、その変わらないということさえも、他者との出会いや、自分の想定しないものとの葛藤なしには認識できないのです。

 

その意味で共謀罪原発事故は人々の認識や開放性を試す事態です。

 

                           *

 

私は警察も嫌いだし、怖いし、演説してて、怒鳴られたりするのも嫌だ。もともといじめられっ子だし。
でもそんな恐怖感よりさらに、社会の自由が壊されるのが嫌だからしんどくても街頭に立っている。
しかし本当はもっと若くて体力のある人も参加してほしい。

 

いじめる側に立てば、なんとかなると考える人が多すぎるが、どうせ権力からいつか見捨てられ、人殺しに加担させられる。

でなくても、労働、消費、性は、自分を殺すか、他人を殺すかをジワジワ選ばされている現状。
世界一生きにくい資本主義国日本なのだ。