細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

安保法制強行採決間近か!?平和の本質を見失わないようにするために考える

 私が戦争について考えるようになったのは祖父の影響である。祖父は太平洋戦争に出征しており、東南アジアで負傷して帰還している。
 私の親も太平洋戦争の時には物心をついていない。だから祖父の体験が私には衝撃だった。祖父は銃弾を浴びて頬や胸や太ももに銃創をつくった。心臓に直撃していたら即死だったが、胸ポケットの財布に小銭がたくさん入っており、銃弾が心臓に刺さらなかったといわれる。私は小学生のころ、祖父の銃弾でひしゃげ、何枚もの貨幣が衝撃でくっついた小銭の塊をみせてもらったことがある。他にも古い写真や当時の紙幣が額縁に入れてあったと思う。
 その小銭のおかげで重傷を負ったが、一晩密林に倒れていた祖父は生存者として助けられ、東京の陸軍病院に帰還した。
 その頃の私の衝撃は相当であった。というのは、祖父が死んでいたらこの世にいないのは母や自分でもあるのだ。戦争とは運命を狂わせるものだと感じたのである。しかしそのことは周りの同級生や友達にもうまく説明できなかった。私を初孫として愛してくれる温厚な祖父の中には運命を破壊されかねない危機があったこと、その音は私の存在にも鳴り響いていることを感じていたのだろうけれど、そんなことは子供は説明できない。

 祖父はもちろん当時の大日本帝国といういわば好戦国家の兵隊として出兵したわけで、加害者の国の兵隊である。祖父は出征を命じたトップである天皇を特に憎んでもいなかった。しかし私には重症を負わせた戦争に駆り出した天皇を祖父が敬っていたということは矛盾であった。だから私は天皇制に深い疑問を抱いているが、祖父の感覚は当時の帝国臣民としてはありふれたものであったのかもしれない。

 安保法制について書く前にこのようなことを書くのはなぜか。
 自分の戦争観・平和感の前提になるものを書きだしておきたかったのである。言葉に強さを与えるのは、固有の感覚である。私には戦争が被害者の運命と権利を破壊し、さらに加害者である人の人格や運命を壊す可能性すらあることを言っておきたかったのだ。
 私が祖父から戦争について感化を受けた頃私は小学校でひどいいじめにあっていた。いじめは子供の日常に危機を与え、感覚や経験のレベルでトラウマ的である。いじめは安心を奪うものであり、比ゆ的に「日常の中の戦争」にも思える。そういう過酷な日常の中で、祖父が提示した生死の境をさまよった経験は私に戦争を実存的に感覚させるきっかけを与えたといっていい。
 日常的に年間に数万人の自殺者がいる世界。在来線の線路に飛び込み命を絶っている。原発事故で被ばくを強いられ、そのつぐないをなされないまま、被害地域でも避難した先でも自分たちの被害に対する償いは受けられない。

 私は現在の安保法制反対運動や戦後の平和運動に強い懸念を覚えるようになった。
 このことをネットで語りだしたとき、私はおそらくは自分の知り合いからも、せっかくの運動なのにイシカワはなぜ批判しているのだと思われたかもしれない。
 しかしそれには理由があった。
 それは当初、平和や戦争の、あるいは日本の戦前戦後の歴史への本質的洞察をいささか欠いて、「今までの平和を守れ」「憲法を守れ」という運動だったように見えたからだ。
 私もぬるい平和、ぬるい戦後を生きてきたのだろうか。しかし祖父の経験との対話があり、自分のいる社会が本当に平和であるのか、心に苦しみを抱える中で疑いをもっていたからだ。
 平和とは何であり、戦争とはなにかよく考えない限りこの国の政府の非道なやり方に抵抗できるのかというのが私の印象だった。
 
 国会前の若者の平和運動について研究者鄭さんの真摯な批判があった。鄭さんは現在の若者の平和運動にさえも「国民主義ナショナリズム)」が入り込んでいることを懸念する。朝鮮半島出身者として、つまり日本の戦争の被害者として、日本が70年間平和国家の歩みを進めていたという認識を批判する。それは、日本が戦中植民地や戦地で人々を虐げ、戦後は在日米軍基地を持ち、そこからベトナムイラク派兵をしていることから明らかであるだろう。基地は日本の税金で賄われている。また、自衛隊も海外に派遣されて、実際米兵を運搬したりしている。日本は戦後も戦争に参加している。
 例えば日本は朝鮮戦争の特需で戦後復興を果たした。60年安保改定の際には、戦犯容疑者として巣鴨にいて出獄した岸が総理をしていた。岸は安倍総理の祖父である。岸は戦前の満州国指導者の一人であり、総動員体制を形成した一人である。ドイツと違って、戦後政府によって徹底的な戦争加担者への訴追が行われてこなかった。
 その岸の孫で、岸を尊敬する安倍や自民党政治家たちが、日本の戦争の加害責任についてまったく償わないどころか、日本の戦争は悪く無い戦争だと言い張るのも、戦争に対する日本の国家社会的な総括がないからである。
 そして戦争責任、戦争への加担を見ぬふりをして「平和国家」といわれるのは、当然朝鮮半島出身者としておかしいと思うだろう。こんなことで日本政府や日本の平和運動がアジアにおける「平和のリーダー」になれるというのは、他のアジアの人々から見た場合茶番といえるのではないか。

 私が理解する限りこのような批判があったとき、問われた運動側の、運動支持者が鄭さんを攻撃したのは非常に残念だった。鄭さんの名誉の回復は進んでいないが、若者は少しずつ、問題にされたナショナリズムなどへ向き合うものも出始めているのかもしれないという印象は受けている。とはいえ、道は険しい。
 多くの安保反対運動への批判者は、それが右派や陰謀論者でない限り、平和運動に何が大切なのかという視点から、本当に平和な世界になってほしいという願いがあって、批判をしたのではないかと思える。もちろんそれぞれの思想の違いもあり、受け入れられやすいもの、にくいものはあるだろう。

 しかし一番大事なのは、私たちが強硬な政府が登場しても、壊されない平和を作り出してきたか、その平和は排他的なものであるのかないのかということである。
 その意味で平和運動のありかたが検証されることは必要なのだと私は思う。運動の足を引っ張るなといわれるが、運動を錬磨するためにも厳しい相互検証は時には必要である。
 残念ながら自衛隊の創設、在日米軍基地の定着によって、憲法9条は事実上守られない状態になっている。有事法制PKO周辺事態法イラク特措法のたびに「憲法守れ」のコールが巻き起こるが、その憲法はずっと守られなかったということの痛みの感覚から、運動を根底的に問い直すことがあっただろうか。
 もちろん平和運動側の勢力が弱く、根底的な問い直しをしている暇はないということだったのだろうか。
 しかし、憲法のような法典は、法の実質が広く市民に守られて政府に守らせていてこそ生きる。そのような平和の具体的な維持の感覚と、なんとなく平和であるような感じはやはり違う。
 そのことを突きつけたのが311の原発事故であった。この原発事故で、私は日本を覆っていた平和の薄衣が破れ、日本は単に社会秩序の維持だけが先行する空疎な社会であったことを露呈したのである。
 311の前から原発はあり危険だったのであるが、目先の秩序の維持のために多くの警告は無視されたのである。そして事故以降も放射能や様々な危機への警告を無視して原発社会を維持する国なのである。

 この意味で、戦争法案も再稼働も同じように「かつての無目的な社会秩序の維持」を至上としている。日本政府の言う「平和主義」が空疎なのは、その平和が「無目的な体制・社会秩序の維持」を平和と考えているからだ。
 しかし私たちも安倍と同じように「何事もなく他の国と同じ普通の国として過ごせばいい」と、平和主義を、空疎なもの、いつの間にかナショナリズムや貧困、戦争を呼び込むものと混ぜ込む習慣を持っていないだろうか。ゆえに、平和運動がマジョリティだけでなくあらゆるマイノリティに開かれねばならないという内部批判も起きたのである。平和と戦争の分水嶺は今日のようなグローバルな消費資本主義社会は薄いのである。テクノロジーも広告もいつでも、戦争の道具にも平和の道具にもなるのである。
 むしろ人々の富や権利を簒奪することに危機はある。
 人々の実存の危機に触れてくるものへの直感的な危機感、センスが平和を支えるのである。ガルトウングの「積極的平和」が実際の戦争がないだけでなく、貧困や不公正がない社会を平和だといったのはこのことである。生活を経済と戦争の両面から破壊されないようにせねばならない。
 平和の追求は私たちの普段の価値観・ライフスタイルの選択にも及ぶというのである。普通の日本人、豊かな日本人から大多数のものがこぼれおちているからこそ、私たちの平和のありかたも思考の転換が必要なのだ。

 日本国憲法9条は本質はアメリカによる日本への再軍備の禁止にあったと思うが、すぐに方針転換し9条は無効化された。しかし9条はラディカルな完全平和主義をも目指している。この逆説を政府はうまく利用し、平和の皮をかぶった原発国家、戦争国家の本質をこれまでも隠し、この路線を今後も維持し拡張しようとしている。
 そのようなロジックにはまらないためには、日本国憲法の歴史的意味がなんであったか、それが守られてこなかった日本とは、日本人とは何であるかを問い直すことである。
 多くの人が問い直しを続けることでこそ、単に形式として憲法解釈や憲法が守られるだけではない平和が時間をかけて蓄積されるのである。
 この安保法制は、集団的自衛権の行使を地球上どの地域でも行える、日本が世界中のどこでも非常に突っ込んだ後方支援を行えるようになるものだ。もちろん私はこの法律に反対である。しかしこの日米防衛指針の改悪は、小泉政権下のイラク戦争支持、自衛隊の海外派兵、周辺事態法とずっと続いてきたものである。それは少し調べれば明らかなのだが、日米政府間で、集団的自衛権の増強が進んでいるということを野党も連続して、大事になる前に問題にし切れていたとは言えない。
 今や骨抜きにされた平和の上に、日本政府の本音が進んでいる。その日本政府の本音は戦後政府が歴史的に選択されてきたことの延長上に伸びている。

 したがって、日本が戦中・戦後とどのようなことをしでかしてきたか日本人は洞察すべきだ。そのことで平和運動は、アジアの隣人の理解を得られるものになる初めての一歩を得られるはずである。
 私たちは今までもアメリカの人殺しに資金的政策的に関与してきた。これからは私たちの国の自衛隊がよその国の人を直接間接に殺すことに関与する。
 それは私たち自身の手が血塗られるということだ。それは戦前の植民地支配時代からそうだった。私たちの国には血塗られた歴史があり加害者であり、戦後も国内外の戦争被害者・原爆被害者を無視してきた。公害被害者を無視してきた。
 この間様々な立場の人と、今風の平和運動に共感的な人にもそうでない人とも話しをしてきたが、誰もこのままでいいと思っていない。これがチャンスである。
日米合意にかかわる事項なので、政府にこの法案を撤回させるのは難しいかもしれないが、本格的で本質的な平和運動の準備として、私たちは歴史や平和の意味に肉感的な理解をし、議論を深めていくべきである。私が今まで書いてきたこともそのためのスケッチである。
そういう認識を持ちながら、政府の悪を許さない態度を課していくことが平和運動を強くするのではないか。

 その中で改憲や悪化する原発政策への根本的な批判ができるのではないか。
 
 原発事故以降4年間、私は成果もなかなかでず、やみくもに動いてきて疲れもある。今年沢田嵐氏と全国の仲間とともに『日本が核のゴミ捨て場になる日』を上梓することができた。これからも、亀の歩みを進めていきたいと思っている。