細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

勇気の結晶-今考えること

 私は勇気がない。臆病である。臆病で慎重である。しかし勇気は作り出されるものだ。それはいってみれば不意の事態に対応しようとする意志の表れなのである。人間の身体の有限な時間の中で、勇気や意志といったものが有限ゆえに構成される。人間に限りがあるからこそ、その限りを大事に生きようとする。それが勇気。勇気は倫理的な力である。倫理でありエネルギーである。
 これは青臭いものではなくて、年寄りも若者も量の多寡はあれ、持っている。僕も病気になってから初めて体調や気分の良さ、呪わずに時間を大切にできることの良さを感じている。自分もまた有限の生を燃焼させて、その燃焼に不具合が起きたりする。有限の生から湧き出るもの。それは希少財なのである。そういうものがなければ腹の底から力は湧かない。
 勇気をひとに「先験的」に求めることはできまい。無理矢理には出ない。
 また放射性物質被曝が、あるいは生活の根拠を根こそぎにする津波地震災害がこの力を奪わないか、私は大変憂慮している。人間はもっと強いものだからと、私の杞憂に終わればいいが、チェルノブイリのレポートを見る限り楽観はできない。事故の形態はちがうのだが。子供や未来ある若い人の生命が棄損される可能性のある事態が進行している。
 ここのところずっと原子力事故や災害のことを考えている。さまざまなサイトがある。どれが信用に足り、そうでないかホントのところはほとんどわからない。
 といっても、そのような情報や措置ですら高濃度汚染地域に行きわたっていない。被災地の人は色々おかしいと感じることがあるだろうが、もしかしたら彼らの直感を裏付けるデータや資料、資源がないのではないかと心配している。なにしろ政府の政策の速度が遅い。手を汚すまいとする(内的規律を持たない)怠業あるいは自分たちの責任を認めまいとする保身だとも思える。津波災害の地域も、原子力事故による汚染地帯も同じ政治のモラルハザードの犠牲になろうとしている危惧がある。頑張っている人々もいる。しかし政治の決定が弱く遅い。これが我々の作り出した政府だとしても。しかし本当に私たちはこれまでこれら政府に抵抗できる状況だったのか。それを含め勇気をもって見つめねばなるまい。

 さて、今日は台風だ。強風が襲いあめが強くなっている。外は白い霧と風。私は臆病者で、平和に穏やかに生きたいという望みを捨てたくはない。平和が脅かされているとしたら、事実、そうだと思うので私のような臆病者でも勇気を試される瞬間が来るだろう。
 ここでいう勇気は逃げる時は逃げ、戦うときは戦う。己の有限性を見据えた勇気である。意固地になることは勇気ではない。ただの意固地である。変わり身があまりにも早いことはかっこいいものではない。考えて行うという、あるいは自分の直感を信じる勇気。信が揺らぐときに大事なものを守る勇気。

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最近読んだ記事で感銘を受けた記事。お役立ちの記事を上げる。
いずれもこの災害から出でた、いやそれ以前から準備されていた勇気の結晶だと思う。ほとんどは新聞記事なのだがとる新聞がちがえばわからない。また内部被ばくのリーフレットは心配な方に有用ではないかと思う。将来のリスクを考えれば少し余分に心配しておくのが現在は程よいように思う。心配しない、不安がないのが一概に「勇気あること」でもないからだ。
3・11水俣から 原田正純/朝日新聞 - 薔薇、または陽だまりの猫
【原発】内部被ばく予防リーフレット完成しました!! - Say Anything!
http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20110523-OYT8T00177.htm
原子力村と文学村 勇気を試される表現者・斎藤美奈子/朝日新聞 - 薔薇、または陽だまりの猫