被ばくと全体主義ー改憲と歴史修正主義によって作られるもの
戦争になる!とか、極右がとか言って、全体主義がこれから来るように書いている人がいるが、すでにその土壌はある。
原発爆発してなんの備えもなく被ばくさせられ被害を認めないのはまさに「国、電力の存立のために黙って死ね」という全体主義。
その国家無責任体制を完成するために、改憲と歴史修正主義があるのだ。
原発事故以前から学校と労働は過度な規律、奉仕による過労死、部活死、同調圧力によるいじめ死、告発の不可能性など、全体主義的な秩序が発達してきた。
それらは経済的な見せかけの自由主義、形骸化した戦後民主主義を嘲笑って新たな経済モデルと同時に導入されたのだろう。
人々の消費社会の中での寸断された孤独につけいり、よりつながりたい欲望を同調圧力にすりかえた。
世界経済の中での生き残り作戦と財界が位置付ける競争主義なるものが官民一体で導入され、より自由な競争ではなく、より上位の意向にしたがう権威主義的なパーソナリティを生み出した。
同調圧力と権威主義的なパーソナリティは全体主義にうってつけだ。
さらに歴史や文化からの切り離し、経済格差による文化資本へのアクセスの困難、文化的なインフラを効率化と称して破壊し、人々の常識的な思考を奪い取った。
ジェンダーフリーやポストモダン哲学が伝統文化を破壊したのではない。
ネオリベラリズム的な悪しき暴力が不透明であるという名の下に、文化的な資本を破壊したのである。
そこに擬似的なナショナリズム的な歴史観がインストールされてしまう。
こうして文化的な価値観やインフラの破壊とともに全体主義が仕込まれていく。
労働と学校を合わせ、人々はもはや逃げられない、逃げようとしたものは殺す。逃げおおせたものは無視して制度的なネグレクトにより、冷や飯を食わせてきた。
また、年金が少ない高齢者、まともな支援がない中で過重労働を強いられ、倒れる若者、そもそも真面目に働くのが嫌な若者、働くのがしんどい障害者、まともな家族子育て支援がない中で貧困化する家族や子どもは、社会への期待度が低下し、日本社会の生産性は低下する。
このようなことは、不可逆的な社会のすう勢ではなく、ネオリベラリズムや反福祉主義により、人為的に、生活保護バッシングのように、どんどん進行した。
あえて、まともな社会の相互扶助システムを叩き潰し人々を不安定化させ、新たな悪しき社会秩序を作ろうとする勢力がいたのかもしれない。
生産性が低下しても日本政府は対策をまともに打たない。国内産業は空洞化して構わないかのような姿勢を見せ、さらなるネオリベ政策を行い、これまでの安心のインフラを減らし競争を強い、労働者の奴隷化は強まった。
この辺りで福島の事故は起きた。
福島の事故でも、外面を取り繕い、まともな被害対策を打たず、被ばくさせたままの政府は、事故前以上に原発を海外に売り、武器輸出の規制緩和を行い、より、アメリカに寄り添った安全保障政策にシフトしている。
おそらく、教育機会の少ない貧困層や国家に過度に同調するエリート層に、福島の事故は国家に責任がなく、戦争責任は私たちにないから、日本は悪くない、私たちは我慢しても原発や軍事を推進し、被ばくしてもかまわないような態度を養うためではないかと私は疑っている。
戦争を引き起こすか否かよりも、国家の戦争責任の無罪化、福島の事故の国家の無罪化による反体制派の除去、抑圧、アジアや中東への原発輸出によるアジア核支援体制?や軍事プレゼンスの増大による日本の国際社会への発言力の増加などを狙っているように見える。
これは多くの人が考える戦前化より、危険である。
戦前化という漠然としたイメージや戦争が来るという警告より、たぶん支配者は悪がしこいのではないかとわたしは予測している。
彼らが得するように社会や人々を教化し、馴化し、被ばく後の全体主義を画策しているようにみえる。
この予測は当たらないで欲しいが日々悪化する状況を見ると、杞憂とはまるで思えない。
来年の参院選が大きな転換点になるだろう。
また新たな自然災害が、人々の生活や原子力発電サイトに与える影響をわたしは心配している。
自然災害の頻発、超高齢化、被ばく障害の増加が予測しうる。
これらのコストを人々に押し付けようと、支配勢力の全体主義の推進は加速するように思える。