細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

めずらしく夜更新

今日よんでたもの。

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

生きる場の哲学――共感からの出発 (岩波新書)

生きる場の哲学――共感からの出発 (岩波新書)

オリバー・サックス - Wikipedia
やっぱりリアルに感じるのは、人と人の間には、ものすごい違いがあるということだ。違いがあって、それが恐ろしく埋めがたいというのがいわば普通の、日常の状態ではないだろうか。
でも、俺もそうだが仲間がいて似た考えの人を探して安心するようなところが人間という生き物にはある。よるべがなくさびしいのでもあるから、抱かれたり巻かれたりすると安心する人も出てくる。

しかしそもそも「同じ」ということは不安な、気味の悪いことでもないだろうか。ただそのほうが安心・安全だというふうにずっと教えられてきたのではあるが。

本当は「似ている」とか「同じ」ということこそが普通ではないことなのだと思う。だからこそ「わたしたちは同じ○○だ」と安心したくなる。そのように世界を自分の似た姿で取り囲む。それがいつのまにか常識になり、似たものが、似たことが毎日起こることが日常であるように思いなす。しかしそのこともまた息苦しいことではあるのだ。

わざわざ個性をどうたらというのも、同じにされてはいけないという差別化みたいなものとどう違うのか。

そんなこんなで「実際にある単なる違い」が消されてしまう。

ますます息苦しい。
息苦しい原因は、人間が自由になりたいからだ。我慢してこらえているが私たちは自由になりたいが、様々な運命が恐ろしいために言い出せないまま胸がつかえ、苦しい思いが喉に上がってきている。
実は世界は驚くほどの不自由、つまりは窒息でみたされている。

ここはおまえの世界ではないから自由に呼吸してはいけないという呪いを全員一斉にかけられたかのようだ。これは全体主義とかなんとかの話ではない。自分自身もあまり息のしにくいところで死に掛けていたようなものなのだ。
おまえ=俺には罪がある。と誰かが教える。迷惑をかけるな。そこを動くな。いや少し動け。いや動くなと。この意味で私たちは惑星の虜囚である。

自分の内側に向って穴を空けてもつながることができない。
だから外へ息を吐く。そうレヴィナスはいったのだ。
息を押し出すことは、自分がまだ生きようとする表明である。この世界への信頼と抵抗の証である。息を吐かないと吸うことができず、発言もままならない。

吐くことを覚えてようやく「吸うこと」ができる。外界を取り入れ、自分の知恵や栄養に出来る。また吸うことがないと、はくこともない。はきつづけていることはできない。自分でわざと息を止めて窒息死はできない。息は何かによって引き取られる。あるいは最後の息を吐いてしまうとその人は死んでしまう。外に向かって出したり外から取り入れたりすることがない境涯に達して内部と外部が存在しなくなるのが死なのだろうか。

他にめくっては面白がる本。

カフカ論 (1977年) (筑摩叢書)

カフカ論 (1977年) (筑摩叢書)

生活がないと生きていけないから文学もあったものではない。しかしその生活自体と文学は常に恐ろしい緊張関係でもって互いを押しつぶしあう。
死を与える (ちくま学芸文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)

責任を取るというとき、そこには「黙って引き受ける」という側面がかならずあること。
いま哲学とはなにか (岩波新書)

いま哲学とはなにか (岩波新書)

これもしっかり読まないかん。とにかくどんどん抽象化され、世間から急速に遠のいているようにも思う。良くない読書ではある。

しかしながら、これほど自分が様々な有形無形の関係に、支配されているだけではなく抱きとめられていると感じる日々もない。私に身体が戻りつつある。空気を失って固く強張り、死んでいた私の身体に何かが吹き込まれている。それを吐き出す力によって僕は生きる。

※10年以上前に読み、今でもひどく影響されている本
    ↓

裏切りの哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

裏切りの哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

ここから引用します。

僕たちはすべてを肯定しなければならないし、またすべてを肯定してしまっているのです。否定は対立するものを結局同じものにしてしまいます。たとえばすでに述べたように、相対と絶対は、それが相互否定の関係にある限り、同じものとなってしまいます。絶対を否定した相対は、絶対と同じ機能を果たすだけであり、否定ということに内包された「―ない」という事態へと双方とも回帰していくだけです。したがって、僕たちはすべてを肯定しなければならないし、すでに肯定しているのです。しかし、僕たちの肯定は全面的なものでなければなりません。つまり、もっとも肯定しがたいもの、肯定することが不可能なもの、つまり裏切りをも肯定しなければなりません。かたちのないシステムへの拒否は、具体的な個人に対する裏切りとして現象する以外にないからです。確かに裏切りは肯定できるものではありません。裏切りは人が共存して生きる可能性そのものを破壊するからです。しかし裏切りは他者、僕のうちの他者、僕そのものでありながらも僕からは無限の距離をへだてた他者からの呼びかけであり、僕に抵抗しがたい力で働きかけます。それは決して正当化されない力です。そして僕たちが肯定しなくてはならないのはこの、どこにもない、しかし至るところに偏在する、決して正当化されない、他者の力なのです。僕たちは他者をこそ、何の根拠も存在ももたないこのものこそを、肯定しなければならないし、またすでに肯定してしまっているのです。

友情とは友情への裏切りを肯定することによって、初めて真の友情であるのだと僕は思います。このようなことが可能であるためには、友情は相対的な二者の間の関係であってはなりません。それは二人の第三者の間の、いかなる共通項ももたない、一切の関係性を欠いた関係性以外のものではないのです。