細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

文学について

なんとなく昨日ある方と言い合いをしてしまったからか、ささくれておる。一昨日からかなり暑いので、ちょっとなにかが燃えている感じである。今日はマシだ。

まあそういうことと関係ないかあるかわからないが、私は時々自分が「呪われている」のではないかと思ってしまう。遠くに弾かれ自分が列外の、みっともない存在のようだ。辱められ参加の資格なんてない「ハミゴ」のような気分だ。これは幼少のみぎりからの生存感覚なのだが、こういうことをいうと大抵の知人、近縁からは「はあ?」みたいにいわれることが多い。自分では「具体的に」説明できないから余計変な感じなのである。大体そういう話をするときの私は「うっとおしい」人になっているので、自分でも「いやな感じ」なんです。

第一「呪われている」証拠がないからである。実際呪われている人とか存在というのはいるのか?でも、なんかわけのわからぬものを皆抱えていきておるわけだから、それをいい意味で「謎」とも悪い意味で「呪い」ともいえる。いや出し抜けにこんな意味不明なこと書いてすいません。

で、やはり自意識過剰なのかと思ってみたら、確かに自分の不幸を自慢のように語るクセも私にはあり、確かに自意識過剰である。思い上がり、夜郎自大である。そんなに俺はかわいそうなはずがないのである。

とはいえ、やっぱり生きていてギクシャクしてる感じが多く、だから誰が呪っているかは知らないが、時々「俺はダメだ。呪われておる。もうどうなっているのか。誰が呪いをかけた?俺はこんな苦しい人生を選んだわけではないぞ」といって周囲を大いに不快にしている。だってそういう私はとても元気そうで暢気そうだから。

この世界は正しさが何かわからないにしても「不正」に満ちているという奇妙な夢。受け流したり「割り切る」力がないのか。しぶといともいえるのか。

オチはない。

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さてしかしそういう「呪われた」私と「呪われていない」私は地続きなのかどうか。さらに具体性がなくなってきた。

時々「呪われた」私のほうが、世の中に生きていることを正確極まりなく認識しているように思う。手がかりのない穴ぼこに落ちて、その向こう側にだれがいるのかそれをしかと感じられない方が、今の自分が生きている実際の世界な気がしてくるのだ。 
だからそっちのほうに本物感があり、その穴ぼこに落ちたことや落ちたから感じられた衝撃は覚えていなくても、ああここにおっこちて、だから、外側からは「疎隔」されてあるのだと腑に落ちる感じがあるのだ。

自分が存在すること自体が気味の悪い異様なことであり、そこからいろいろ言語化すると変な言葉が出てくる感じがするのである。でも、なんか自分が特別だというのとはやはり自分としてはちがう。自分の見えるところをまず忠実に書くということだ。というかそれしか出来ないからだ。

自分の狭い視野から書くのがまず手始めとしていいように思う。そこで知ったようなことを書くなら意味わからんことになる。言葉を使う限り置き換えから逃れられず、意味の網の目に絡まるのだが。

普通は逆のことをいうでしょう。広い知見で書けみたいな。それには勉強だみたいな。それはそうなんだけど、自分の存在の形をたどらない限りは、どうせ大口になっちまう。
逆に「自分だけの個性的な」文章を書けというでしょう。でもそんなのいきなりわかったら苦労ない。

それからうちの親父は、「本を読む」「文章を書く」みたいなのは、単なる空理空論であり、メシが食えない、だから経験で感じたこと覚えたことしか俺は信じないというのです。だから本を読んでいると「暗いところで本を読むな」って私の目のことを心配してくれるんです。ごろごろしていると「縄跳びしなさい」とか「キャッチボールするで〜」とかホンマにそういうおっさんなのです。

それは「呪われた私」にとってはうっとうしい健康思想なんです。でもその親父の言うことは正しい気もするのです。

で、私も実際文章を書くことが「善」であるかどうかわからないです。きっと善ではないです。禅でも「不立文字」です。何かの法則に逆らっているんだと私は思います。

ごちゃごちゃ考えるな・ごちゃごちゃ言うな。これはある場合この世界を形成する「掟」だと実感します。実際いろんなことを感じ考えるたびに、なんか浮いてきたり、おかしいなと思うことも増えます。でもなんかやはりこれしかないよなあと恍惚とする感じがあるのです。

だから文学は気味の悪いものというか、個別の足元に液状の世界が広がっている類のどんどん深みというかとんでもなく迷路にはまる方向にあるのです。

しかし迷路を歩いている自分の身体を通過するあらゆるものを書いていたいのです。圧縮した緊密な連繋の言葉において。拡散し、飛散し、風化し続ける己の身体を通過し抵抗しされるものの記録。

            

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いやそんな大それた話になっちまいましたが、昔介護を辞めるとき、方々で「僕はこれからは詩を書きたいんです」っておかしなことを自分はいっていたのです。そのとき自分は「金の稼げる」職業としてはまるでリアリティがないことをいってます。大半は「現実逃避」の気持ちです。しかしもう「呪われている」ならそっちをやってみなきゃというのもごくわずかありました。で、仕事を辞めても就職する目途も何もなく「主夫になる」っておかしなことをいっていました。当時つきあっていた彼女がいましたので。それが実際僕が「生活」の上で考えられる目途でした。

だから別れられて当然だと思います。


辞めて一年くらいたって、ノコノコその法人のグループホームの近くを歩いていると団地の駐車場に昔大喧嘩したメンバーさんがいました。「いしかわくん〜ひさしぶり。主夫やってんの?」っていわれて。覚えているんです。で、自分がとてつもなく恥ずかしいやつなんだなと思いました。びっくりしたのです。
当時ホントに荒んでてロクな生活じゃなかったんです。

話が逸れましたけど、それは実際「詩を書く」という言葉で目指されていた何かとは一体なんだったのか、それはうまく「まとめあげられない」気がしてしょうがないのです。書くってのは、作品を書く前と書いた後があるわけで、これもやはり労働と生産と似ている。しかし本質的にはまるで逆の方向にまるで商品を、生きている牛に戻しちゃうような、そういうおかしな働きもあるんじゃないかということです。

あるべきものに戻す働きです。どうも全然逆で「文学」は美しく化粧するものと思う人も多いと思います。
私もそう思います。でもそれが美しいかどうかなんてわからないし、自信もないまま、それをそのまま描くことで美しさが展開される。そのようにコンテキストがどんどん伸び、繁茂していく。

つまり文学にもこの世界を作ることにわかりやすく寄与する方向と、潜在的にわかりにくくしかし精密にありのままを描き出すほうこうがあって、そこに実際の「保守と革新」の対立というかそういうのが文学にもある。

ただ文学はテキストというか文章自体が様々な素材から出来ていますから、あるとき、制度に適合した作品でも、後に異常な作品に見える部分もあります。自分はデカルトの「方法序説」なんか当時は革新で、今「近代」の保守本流みたいにいわれていますが、この本は相当異様だと思います。デカルトについては昔書きました。
Haizara-Cho::Fujimi 7[Ishikawa_Kazuhiro] :: 言葉-自分に向かう・誰かに捧げる



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話が無茶苦茶逸れましたが、私はすごく怒りっぽくいつもそれはビクビクしています。いつか自分がまた再び辱められ、苦しめられ理由のわからない苦しみを与えられるのではないかという被虐的な感じがあります。自分が不正を発見しても誰にも気づかれず自分が見たものが「ないこと」にされるのではないかと。
だからいつもそこへ行って殺されるかもしれず、そういうふうに不信があるから、人を信じることが出来ず、だから目の前の何かをきちんと見ることが出来ず頭をどっかに打ち付けてしまうかもしれない。
あるいはそんな目に会わず、恐るべきヴィジョンにも出会わず、そのことも「安心立命」とはいえ、大体そのように過ごしながら、狂った世界、狂った自分の間がブルブル震えています。

文章を書くと誰かひとりが全ておかしいのではなく、何かが鎮まるというか許せるような、あることをあることとして、見とめ、そこにいることがかろうじて出来るような気がします。
ある時、僕やあなたは決定的に間違っているし、幾分かは、しかしそれを許しも裁きもせずおれるような。
書くことでなくてもよいですけど、世界に耐える、そこにいようとすることは日々行なわれる奇怪なこと、素敵なことにあふれかえらず、自分であろうとする「主観性」をなりたたせようとする「取り組み」なのです。
自分の意見なんてもてるかどうかわからないけれど、生きている限り、この世界になぜか参加しているのですから。

そして、もしその「参加」が異様な、不平等なものになっているとしたら、それはやはりその世界の法や掟がおかしいのです。カフカ三島由紀夫が書いたこと、書こうとしたことはそういうことなんではないかなと思います。

人は苦しんだり、喜んだりぼんやりしながら生きていますが、あまりにも不公正でおかしなことは僕は許せないときがあります。そしてそれは日常のそこいら中に転がっています。それの前になす術はほとんどない。遠い国ではなくても目の前の不正に気が狂いそうになりながら、しかし同時にそれを日常とし、平常としている。
つねに傷みがあるのだけど、どのように戦っていいかわからないし、第一子供のときのような目をもち得ないのです。

あるとき世界は許しがたい災厄のようです。しかしそれをしっかり記述し、皆が
なにより私自身がそのことを見とめやすくなるのに文学は一番のようにも思います。

時々とても平和なようにも思えます。何か健やかでデタラメで特に変わったこともなくて、文学がどうとかより、音楽や踊りや、ただゆらゆらしているだけでも面白おかしいではないかとは思うのですが。実際そう感じるときもあるから面白いです。深刻面ばかりしていたらそれも嘘でしょうから。実際本当に本当の苦悩もあるように思いますから。

以上好き放題書きました。失礼。