細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「発達」について考えてみる

最近マイケル・ジャクソンに関するエントリが続いた。
今日は「発達」について概略というかすごく大まかに今考える。これはまあメモである。
このことはマイケルと無関係ではないのだが、しかしうまく道筋をつけられない。
なぜ僕が「発達」を考えるかということを説明しておきたい。
実は今でも「発達」というテーマが自分のものであるという自信はない。まず近い人に教員がいるということがひとつ。もうひとつは、児童福祉の分野で働いておられる方のブログ(id:lessorさん)や特別支援学校で働いている方のブログを最近よく読むのである。また「ひきこもり」や「社会適応」に関し鋭い提言を行なっている上山和樹id:ueyamakzk)さんにも当方個人的にだが、触発されている。(もちろんそのほかにも多くのブログで勉強させていただいています。キリがないのでこれくらいに)

ただ、なぜそれらのブログや人に関心をもつかということであるが、うまく説明できない。ただ、かつて成人の知的障害者グループホームで働いていたこと、そこで「燃え尽き症候群」によって参ってしまったこと。そこで、発達の遅れとは何なんだと悩んだこと、それではそもそも「望ましい」発達と「望ましくない」発達がこの社会で決められるのはなぜかということ、また僕自身が病気になることを通して、むしろ人間の発達は、単線でなく、様々な障害や迂回路やあるいは穴ぼこや逃げ道や迷い道があることに遅ればせながら気付きつつあることである。自分自身が自己形成の最中なのである。自分探しでなく「自分の形成」であり「生成」であり「制作」である。

つまり自分が生きることについて、それをそのあり方の根本を大事にできないで、何がコミットメントかと介護の仕事で思ったが、しかしそこは全然今でも解決できてない。職場で「自己犠牲」をいう人もいたが、自己犠牲や根性論で何が変わるのかと思ったし、かといって、人間には僕にもあなたにも適切な「やりがい」はやはりいるのだなあとも思う。

また介護の仕事をするまで、なかなか社会参加へのきっかけがつかめなかったこともある。

もちろん発達というからには、「生きられる」生き方の身につけ方が大事であると僕は思う。僕自身がなにはなくとも、「安心立命」というかそうありたい。人間過度の無理は利かないのだ。ただ、それは個人が決めることだけではなく、社会や家庭、自然といった諸関係の中で気づき、気付かされ、伝え、伝えられるという大きな背景の中にあるということである。(その中で「がんばる」「がんばらない」「できる」「できない」「ほどほどである」などなどの意味…)

ならばかつて、福祉業界で聞いた、あるいは社会福祉士の勉強の過程で覚えた「当事者」や「自己決定」という考え方は、すごくせまく偏ったものであるようにも思えてきたのだ。
人間には無限の可能性があるという。しかし人間が極端に無理をしたら過労死や、うつ病、マイケルのような破滅が待っている。もちろん人間には大きな「潜在的」可能性があり、貧困や社会的不遇により、阻害されているケースが多数ある。その「可能性」は擁護されねばならないが、それが過大に偏って誰かに押し付けられても本人は辛い。
 またでは「そのままでいいよ」でいいのかという問題がある。周りが本人が今まで「肯定されなかった」から今「肯定」してあげようというかのようなアプローチがある。癒しブームや、ピアカウンセリングといった当事者活動にもその危険がある。つまり「肯定」されるのはうれしいが、その人の「自己愛」ばかり肥大させる危険がある。不当に厳しくせよとは思わないが、その人の「等身大」の姿をどのような立場で肯定するのか、また本人のした悪をどう変えていけるかは意外と議論されない。またお互いが変わっていく、立場の違いを超え変わるということも大事なのだ。

 人は「仲間」のなかで育まれるというようなことを教育でも福祉でもいわれる。それは間違っていない。しかしその「仲間」のあり方はどう検証されるか。同じ障害・年齢=仲間なのかどうか。また、仲間だけでなく「ひとり上手」という言葉もある。また仲間が雲や空や犬や植物や死体や建築物、山、川、不良、大人などなどその他様々なものである可能性もある。あまりにも「人間関係」の中だけで煮詰まっていないか。

 可能性を擁護するには、「できないこと」「できにくいこと」についても深く考える必要がある。苦手を克服してそれで本人がよくなる、チャンスが増える状況もあれば、あまり複雑で不当な事態を回避することで、その人が守られることがあるのである。どちらに偏りすぎても、本人は「現実感覚」から遠ざけられるかもしれない。
また「夢想家」のようなタイプさえいていいはずなのである。お題目ではなく色んなタイプがいないことには、人間の環境生態系的にも困る。ファシズムは人間の生態系にとっても自殺的である。

また発達というと子供の問題と思われているが、人が関係や自分の身体の変化=生老病死をまぬがれないなら、一生が発達なのである。
そのような事情をかつて「論語」は「三十にして立つ」や「四十にして惑わず」といったのであろう。論語では、三十が「自立」の鍵なのである。果たして今のニート・ひきこもり問題にこのようなパースペクティブから、その人の可能性と、困難の改善が議論されているのだろうか?
発達や自己形成の過程は多く独自の個人の運命の中で行なわれている。もちろんだからといって「ほったらかし」過ぎてはいけない。しかし子供の頃不当な介入により自己形成が不全なまま、大きくなった人間がどのように「自己の形成の過程」を見につけるか。そのようなモデルがこの社会には少なすぎる。
またさらに大きく見るなら、発達は生物的な現象でもある。遺伝的な発現であると共に、その発現形と環境の相互作用でもある。
とはいえ、遺伝やその影響をうける脳と身体は相当謎の多いものであるため、その研究の成果も一定の意義をもつとはいえ、まずは日常の中で見えるもの、今は見えないが、見えるかもしれないものの上に科学のもうひとつの基礎がある。見える、自明のものを記述するのは、自明ではない。だからこそ言語に関する研究や文学がある。哲学もある。その他様々な傾向性やイデオロギーをもった諸科学がある。

しかし、その科学のイデオロギーが何に資するか何を疎外するか、自明であるはずのものが他の人にとって自明でない時、その間に異言語翻訳と照らし合わせが成り立つかということだ。つまり心理学や生命科学や医学が適用されるのはいつも我々によって生きられる身体である。「自閉症」というときそこに生きている人をすぐに裏切っていないか。だからそこをいかに記述するかは、実際に生きられる身体との関係が必ずや考えられなければならない。これを忘れる時どんな科学どんな分野の言語でも生命に打撃を与えるのだ。


話が広がりすぎた感もあるが、またいつになるかはわからないが、発達心理学の浜田寿美男氏の講演録を読みながら考えてみたい。
発達のこと、また教育や福祉に見識を持っている上、氏は司法における「自白の強要」のメカニズムの分析にもたずさわっている。法心理学者でもあり、知的障害者の冤罪裁判にも関わっている。
氏の著作を数冊持っているが、文体は優しいものの、私の知識不足と怠惰のためきちんと読み込めていない。しかし興味深い考察が多数ある。じっくり考えながら考察をしてみたいと今思っているところです。

浜田寿美男さんの所属大学での自己紹介http://www.nara-wu.ac.jp/bungaku/ningen/ningen/kyouin/hamada.htm