細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

顔のメモ

まだマイケルから思うことがいくつかある。それは「顔」のことだ。
昔買ってほったらかしていた

対話

対話

をぱらぱら読んでいる。なかなか難しい書物なのですぐ眠くなるが、他の著書に比べれば読みやすい。この本はドゥルーズガタリではなく、パルネという人との共著だからなんか風合が違う。どことなくドゥルーズガタリのときより文章がしなやかな気が…

「顔」についてこうある。

あなたの秘密はあなたの顔とあなたの眼につねに見られる。顔を失え。記憶なしに、幻想なしに、解釈なしに、現状を把握することなしに愛することができるようになれ。ときには枯渇し、氷結しあるいは氾濫し、ときには合流しあるいは分岐する、そんな諸々の流れだけがあればいい。男性と女性は流れである。愛し合うことの中にある全ての生成、すべての性、たった一人のうちにあるいは二人の中にあるn個の性、そうしたものは去勢とは何の関係もない。闘争線の上には、もはやひとつのものしか、性という実験しかありえない。前もってわかりなどしない。なぜなら過去がないのと同じように未来もないのだから。「私ですかほらこの通りです」。すべてはこれに尽きる。(前掲書P78)

これは意外にむずかしくなく恋愛にはこういう瞬間があるってことで、まさに自分にも覚えがあるのだが、その瞬間に「これが自分です」としか示せない。告白の時とかそうでないかい?僕はマイケルを表現者だと思うので、こういう身も蓋もないしかし生きとし生けるものとしてまっとうな部分が彼の表現を支えたのだろうと思う。そこで文字通り「顔を失」うような事態を彼が究極まで推し進めたのかもしれないと思う。
ちょっといいすぎかもしれないが、化粧→素顔という移行によってナチュラルを目指すのではない。逆に素顔→化粧→整形という形で。そうすることで、ポストモダン哲学と似た「まっとうなもの(ここでは出会いそのものを指す)を懐疑し、それを確かめるために、出会いそのものにいたるために奇怪な姿を採る」ということがあったように思う。
そこを拾いたい。

もうひとつ「顔」について、もうひとつ白いスクリーンの上にブラックホール(黒い穴)が空いているという表現もあったように思う。これはドゥルーズの本を読む前に、マイケルの死で頓挫したロンドン講演に参加した日本人スタッフが「マイケルの顔は白人の白さとちがう、もっとなんというか画用紙のような白に痩身であった。あまり周囲と話さないが、非常にオーラを感じた」という証言と重なる。32ページの辺りだが疲れたので今日は休む。レヴィナスの倫理の根幹をなす「顔」とどうつながり、あるいは対立するのかもまたかんがえてみたいのだが。。