細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

スネ夫である

俺は人になんとかしてもらおうとしすぎる気がする。
期待通りにうごいてくれないとすぐすねる。
スネ夫である。

自分で動くリスクや不安を恐れている。
しんどいし、動くといきなりいろんなものが押しかぶさってきて、いきなり矢面に立つ場合が多いからだが。打たれ弱いのだろうか。

責任を引き受けるのが、好きな人が少ないのは、他の人のやっかいごとに関わるといろいろややこしいのと、それから、いろいろなクレームや批判に曝されるからだ。
しかしそれにあまりあるやりがいや名誉もあるかもしれない。

自治会長や果ては政治家になる人はだいたい決まっている。
それは責任を引き受けますということで自分が偉い人になった気がするし、そこに利益もあるからだ。
結果批判に耳を貸さない人が偉くなってしまう。
仕事をばりばりする。しているふうになる。
そして多くの人は面倒なことはおまかせになる。
俺はちょぼちょぼでもいいから自分の人生を大切にしたい。これは尊い心である。
仕事や生活が大変だからだが
その結果、ある厚顔無恥な人が、進んで責任ある地位を占めて自分やその仲間の都合だけを考えるようになる。

べつに政治家を叩きたいわけではない。
しかし有限な個人に、果たしてどのくらい責任が、あるいは苦渋や苦労が負えるかを考えないと。
そうでないと引き受けたくない人が増え、やりたがるやつはケッタイなやつばかりということになる。

そうして何十年とやった結果、小泉や麻生のようなやつがあらわれているだけだ。そして積もり積もって住みにくい国やコミュニティが出来ているわけだ。自分も年齢的にかんがえても全き被害者だと思えない。(普段は自分はこの社会の犠牲者だと思ってる時間のほうが多いが)おそらく害悪や愚かさを俺も垂れ流していると思う。(思いたくないが)つまりそういう状況をつくることにどこかでかかわっているわけで。実際そういう形でひとはひとと生きている。だからマスコミやなんかのようにあんまり叩いてばかりでも違うとは思う。もちろん、ちがうことは批難してやればいい。しかしそれだけでは、なんか違う気もする。

選挙に行けとかもいわない。しかし政治家に限らず、自分自身に表に出て、何かをやる、努力する、引き受けるということへの恐れが自分の中にある。
それは政治とかのおおごとではなく、すこしはたらいてみるとかだ。
自分が自分のすべきことやしたいことを見つけるのに、それは大きな障害になっている。

グズグズいわずにやれればいいが、そこまでの元気もなく、また世や自己の運命を、それが恵まれているに関わらず、呪う私でもある。

このヤル気のなさ。それを前向きに解消してはいけないとなぜか感じる。
自分の人生にとってはそれは否定的にもはたらくのだが、それが感性や嗅覚も支えている気もするからだ。
そこを自分で考え、だれかから思い知らされそうして現実の味のうまみをあるいは苦味をおぼえられていきたいなと前向きに〆てみる。

いやでも実際ほとんど「何もできてない」のは事実なのだ。
その成果のなさが俺をあせらせる。
じっさい、ホントに色んな人に頼りっぱなしである。
だからすねていく。自分がまねいてるかもしれないのに「自分は役立たずだ」みたいな。
いっかいちゃんとひとりぼっちになったほうが良いかもしれない。じゅうぶんに頭を冷やせとじぶんにいいたくなる。