細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

過渡的な考察-存在の場所と責任

 他人の言葉から学ぶことは多い。しかし自分の血肉で学んだことや感じたことを言語化したり、何かにしていくことがもっと大事。

 さらに思うのは、自分の言葉は自分で所有できなくて、それはなんども語りなおされるしかないんじゃないかってこと。

 言葉は辞書みたいに頭の中にしまい込まれているというのではなくて、きっかけはいろいろだけど触発されて、そこで初めて「自分はこういうことが話したかったのではないか」と気づくのではないかということ。

 よく「言語共同体」といったりするが、そういう大枠の括りはもちろん存在するだろうけど、それに覆われない形で私は「実際は」話しているんだってこと。
 「日本語」を使ったりはするんだけど、あるいはある所属で話したりすることはあっても、私なら私という「存在の場所」から言葉が出てくるんじゃないか。だから個人か共同体かという二分法ではなくて、私という存在の場所は、「私が人と関わる・関わってきた・関わってこなかった」あるいは「私が世界とつながってきた・切れていた」という事態そのものとしてあるんじゃないか。

 以上のような「事態」は日々、移り変わりながらその人をその都度表しているんじゃないか。

 
 もし「責任」という言葉があるとしても、私という存在の場所そのものを照明し、そこを打ち抜くものじゃないと何の意味も持たない。責任を「ある個人」を狙い撃ちするものや「組織全体」だけを攻撃するだけではダメなのだ。
 組織や制度を生きるある人、つまり私たちは必ずそれがどれだけの規模の共同体であろうともそこに存在している。しかし人はそこにただ没しているだけではない。ある場面で没していても、他の場面ではそうではないかもしれない。そうすると、その人がどのような環境や組織や制度を生きながら、その人そのものという「存在の場所」を形成しているかが問題になる。

 これは人を尊重する時も、その人の責任を問わざるをえないときも、どちらにおいても大切なことだ。

 私はハンナ・アレントイェルサレムのアイヒマン」をきちんと読んでいないが、仄聞する限り、アイヒマンの問題というのはまさしく、その人そのものがどういう存在の場所として構成されているかという問いではないかと思うのだ。アイヒマンの例は最悪のケースのように見えるがJR福知山線脱線事故における責任者をどう考えるかなども、類比的な例なのではないかと思う。
 file not found | 東京大学法学部・大学院法学政治学研究科塩川伸明氏の「イェルサレムのアイヒマン」についての読書ノートから引用する。
 

最後に責任論について。歴史上の大きな惨禍に関して、それに関与した人たちがどのような責任を負うと考えるべきかという論点は、多くの人々の関心を引きつける重大問題である(30)。
 責任という問題を考えるに当たっては、どのような人の責任を念頭におくのかの特定が欠かせない。「誰の責任」をいうのかによって、「どのような責任」かも、自ずと異なるからである。本書の主題との関係でいえば、以下のような人々を区別することができるだろう。
 ①アイヒマン個人。
 ②ドイツ人全般。
 ③ユダヤ人、とりわけシオニスト
 ④ヨーロッパ諸国の人々。
 ⑤アイヒマン同様の「陳腐」な官僚、あるいはより広く「ありふれた普通の人間」。
 これらのうちのどれに重点をおくかは、それぞれの人がどういう立場にあるかによるだろう。アイヒマンと同時代の人々にとって、①が強い関心の対象だったのは自然である。また、自分自身がドイツ人である/ユダヤ人である/シオニストである/ナチ・ドイツに協力した国の人間である等々の場合には、それぞれに応じて②③④が深刻な問いとなるだろう。また、哲学者や心理学者は⑤の問題に興味をいだくだろう。
 アーレントの場合、アイヒマンと同じ時代を生きていた(二人とも一九〇六年生まれで、完全に同年代)ことからして、①への関心が強烈だったのは驚くに当たらない(実際、彼女はわざわざ自ら志願して『ザ・ニューヨーカー』誌の特派員となり、アイヒマン裁判の現場取材に携わったという)。また、ドイツで生まれ育ったユダヤ人で、全ヨーロッパ的視野をもち、一時期シオニズムに惹かれたことがあり、また哲学者でもあるという彼女のパーソナル・ヒストリーを考慮するなら、②③④⑤のすべてに強い関心をいだいていたことも容易に理解できる。現に、本書ではこれらのどれもが主題となっている。それはこの本の内容を豊富にしている反面、主題が拡散しすぎて、どこに重点があるのかがつかみにくい結果にもなっているのではないかという気もする。たとえば、戦時下ドイツにおける「内心の反対」に関する辛辣な評価(pp. 126-127; 一〇〇頁)などは、それ自体として興味深い指摘だとはいえ、本書全体の主題からいえば一種の脱線という印象を受ける。
 日本人の関心のありようについていえば、ドイツをはじめとするヨーロッパ史やユダヤ史・イスラエル史などを専攻している研究者は職業柄②③④ に関心をもつだろうが、それはむしろ例外であり、一般的にいえば、それらの論点への関心はあまり高くないだろう(但し、②については、一五年戦争に関する日本人の責任問題に置き換えることによって、間接的に関心の対象となりうる)。①についても、いまとなっては遠い過去に裁かれた一個人であって、とりたてて強い関心の対象にはなりにくい。そうした事情から、⑤つまり「普通の人間」の責任という観点が最大の関心の対象になる傾向があるのではないかと思われる。
 ところが、そういう関心をもって本書に立ち向かうと、やや肩透かしの感をいだかせられる。というのも、本書は⑤の問題にもある程度触れているとはいえ、それは特に中心的に掘り下げられているわけではないからである。
 本書は「悪の陳腐さ」という副題をもっており、アイヒマンは例外的に残虐かつ悪辣な人間だったのではなく、想像力を欠いた官僚としてその任務を遂行したに過ぎないという観点に立っている。だが、では本書の記述が「普通の人間」のおかしうる悪行およびその責任という問題に焦点を当てているのかというと、そうでもない。やはり焦点は、最終的にはアイヒマン個人に当てられている。たとえ彼と同じような人が同じようなことを犯したかもしれないとしても、だから彼が免責されるわけではない、というのがアーレントの結論的主張である。これはこれで十分成り立つ議論ではあるが、では、同様のことを犯したかもしれない他の「普通の人々」についてはどう考えるべきかという問題には、本書はあまり立ち入っていない。
 こういうことを私が気にするのは、本書刊行後の様々な議論を既に知っているからかもしれない。たとえば、ミルグラムの心理学実験――残酷な行為をするよう命じられた人の多くが、その指令に従うことを示したもので、「アイヒマン実験」とも称される――などはその代表的なものだろう(31)。あるいはまた、ホロコーストそのものに関しても、ブラウニングの研究やゴールドハーゲンの論争的著作が、「普通の人々」もしくは「普通のドイツ人」――この二つの表現の間の差異という問題もあるが、ここでは立ち入らない――のホロコーストへの関与について論じている(32)。私自身はこれらの議論についてよく知っているわけでもなければ、立ち入って論じる資格があるわけでもないが、とにかく、極端にサディスティックというわけでない「普通の人間」が恐ろしいことを犯しうるという問題提起は、今日ではむしろありふれているだろう。そうした観点を既に知っている今日の立場からは、アーレントもこの問題に取り組んでいるのではないかという期待をもって本書に向かうことになりやすい――少なくとも私はそうだった――が、この期待は空回りに終わる。やはり本書はあくまでも、アイヒマンの責任を論じた本なのである。

 賛否は一旦置くとして大変興味深い論である。
 塩川伸明氏が「イェルサレムのアイヒマン」の読書ノートで言うように、誰に対する、あるいは何に対する責任か、あるいはまた加害者がどこに存在し、どのような制度性を生きているかは幾層にもなっており、まさに一枚岩的に語ると混乱が生じてしまう。
 私は、自分も含め、いつ誰もが厄介な被害―加害の関係に立つかわからないことを考える時、その人を単に免罪するとか単に攻撃するためではなく、何がどのように問題か、その責任は何がどのように負うのか、その意味は何かを、様々に散逸し不分明になる実態やデータの中から丹念に洗いなおすことしか我々はまだできないのだ(往々にしてそれすら多くのケースで難しいこともあるのだ)、そういう嘆きに近い感慨をもつ。

 もちろん私は暴力や過失とはいえ、人をひどく傷つける行為を肯定するわけではない。ただ私たちが、巨大な「災厄」としてこの社会を生きている以上、そのメンバーであると同時に主権者である私やあなたが、何に対して責任を負い、何から自由であるかを仔細に検討することが、たんなる糾弾やパニックに陥らないために重要なことだと思う。つまり可能な限り正確な責任論のために重要だ。

 昔からいじめ然り、大きな組織的事故や、犯罪について感じることだけではなく、私たちがこの社会から生きている「喜び」を引き出すためにも、自分が存在の場所そのものとしてどのような構成を取っているかを知ることは自分が何を生き、あるいはついついどのような生を送ってしまっているか、それが人とどのように関わるか、関わっているか、あるいはどのような生を送りたいか考えるために重要である。

 個人は多面的な存在であるというだけでは回避できない場面がある。このとき「私はどうするか」という場面はいくらでもある。また「私だけの責任だ」と他の多くの罪を(恐らく不当に)引き受けて(あるいは引き受けさせられて)しまっている状況を改善することはどう可能なのかよく考える。これは具体的なケースにしぼって考えられなければならないが。基礎的な心構えや問いの構成のあり方について日頃から注意しておくべき点はあるのではないか。
 まだまだ不勉強なのでこの辺りで。