細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

悪乗り

ふむむ。
2009年5月24日「現代の現代思想」Part4 (文化系トークラジオ Life)
これはだいぶ調子が出てきたのだろう。しかしかなり悪乗りしている気もする。
ただ公的領域に関するおもいきった議論はなるほどと思う。
昔アブラスターという政治学者の「民主主義」という本を読んだが
今までの大衆社会では意見集約が難しかったがテクノロジーを使えば直接民主主義でいけるんじゃないか、いやむずかしいかみたいな話がのってたような。

調べたらあった。


これ東浩紀の意見と正反対で、それは民主主義をゆがめる可能性すら示唆している。この論文のレジュメで世界的な情報基盤(The global information infrastructure; GII)と呼ばれるのが東の言うグーグルと近い位置にあると思う。12年前の論文である。
同じ趣味同士で、ふだんはただしゃべってて誰かのグローバルな技術がそれをうまく統計化集約化してデータを作ってそれをもとに官僚が決定しても、民主主義が様々なひととの討議である以上、それは意思決定あるいは形成過程に重大な欠陥があるみたいな。
保守的な意見に見えるが意外と僕の実感には近い。

いまのところネットはインフラとしても様々なひとがアクセスしているといいがたいからネットは補足的な位置になるし、テレビだってそうじゃないかと僕は思う。ネットはある意味補足的である。これを忘れたら厳しい。かなり大きな存在ではある。が、今はまだ高齢者、障害者、貧困者のかなりの部分に届いていない。ということを忘れないでおこう。その意味ではテレビの方がその層が接しうる可能性の高いメディアだ。ケータイもそのような普及の仕方である。一方、ウェブで多くの討議があることも見過ごせないが。

しかしどれがヘゲモニーをとっても具体的に人々が参加する過程を見過ごせない。選挙や国会がある儀礼の場と化している面はあるから悩ましいが。

民主主義の大事なことは、誰かの話を聞く、話す、そしてその過程で力をつけるってことではないかと。まあこれも能力差はある。ソクラテスの時代からあたまのいいほうが勝つわけだ。だからわざわざソクラテスは自分の知らないこと、足りない部分、盲目な部分が必ずあることを知りなさいといったわけだ。それはどれだけ頭が良くてもそうなのだと思う。たしかに普遍性をよそおった「私的利害」という議論は傾聴に値する。けっきょく自分の意見や利害を他人におしつけて、生きている部分は私にも痛いくらいあるから。

しかし東浩紀がラジオでこんなに楽しそうなのは、やはり人と話して、いろいろいえるからではないか。そう揚げ足すらとってしまいたくなるくらい、彼は楽しそうだ。聞いてても面白い。なんか若干気色悪い感じもするが…