あまりに雑にメルロ=ポンティについてざっくりざくざく
- 作者: モーリスメルロ=ポンティ,Maurice Merleau‐Ponty,中山元
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1999/03
- メディア: 文庫
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しかししかしである。長年の誤解が解けてきた。大部は読めないがちくま学芸文庫の「コレクション」はとてもいい。本人も「肉」というが、人間にとってそれがなくてはならない具体性そのものの話だったのだ!言葉は硬いが、しかし実は人間のコミュニケーション・認知機能・感官機関・言語・社会関係をひっくるめた大元についていおうとしているからややこしいんで、下世話でいえば「どうしたらあの人と話せるだろう」とか「会社が変だけど、どう変えれるの?」とか「どうも人の気持ちがわからなくてこわくて怒ってしまう」とか「語学が苦手で」そういうお悩みに共通する何かだ。それはコミュニケーション・関係性。ではその関係性とかってなに?
自分は自分でしかない、相手はわからないと思っていても他者にとって意味を帯びて存在してしまう。また、そういう他者もまた自分が見ている誰かなのだ。そういう形の場所として、社会・認識・制度・言語はそこからしかあらわれないといっているのだ。だからそこに手がかりがある。全き外在性や内在性ではなくそれが形成される場所自体みたいな。
メルロ=ポンティはそれを人間だけでなくモノや生物にも拡張する。自分にとっての誰か、誰かにとっての自分という場所が立ちあらわれる時、そこに語るのが難しいがそこにしか具体性がない。それが欠ければ苦しい。
たとえば、自閉症の人も、その「自分にとっての誰か・誰かにとっての自分」の場所にアクセスしにくい。統合失調症なんかも実はそうだ。それは意味とか言語つまりこの世の制度の根源へのアクセス障害なのかもしれない。
「自分にとっての誰か・誰かにとっての自分」「あの子にとっての俺」「私にとってあの人は」「「愛犬にとっての犬小屋・犬小屋にとっての愛犬」そういう様々な視線の入れ替わりや相互のりいれ、融合、分離。日常の光景そのもの。うむむ。