細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

メモ 不随意に(2)


 20代のある時期からお喋りというか多弁で、それは自己防衛的な多弁だと思う。だから自分の語りの間に「すき間」みたいなものがなく、弾性を欠いてくる。そうすると息が詰まる。


 ここ一年またかなりそれがひどくなっていたように思った。最近ちょっと相手の言葉が待てるようになった。てことは、一体何にプレッシャーを感じていたのか。


 なぜか待つことができていると感じるときは、他者との回路に滑らかさがある。それがどうも相手にも伝わり、それが人と人の間を支えているようなのだ。


 相手の言葉を待つ時、そこには実は時間的制限があるのかなあ。いや、流れていってもかまわないというふうに、考えて待つのも「受容」みたいでわざとらしい。


 でも、なんとなく時期が来たら言葉が組織されたり、あるふわりとした形をもつこともあることがこんな年になって感じられるようになったのかな。


 いや、単に時間がある方向に向き始めたので、自分が何をいっているか捉えやすくなったのだろうか。いや、なんにも決まっていないけれど、でも、もう自分の中にある何かが始まっているような…詩的な言い回しでごめんなさい。


 以前木村敏という精神病理学者がいっていたな。苦しい精神状態のときは、なぜか相手とタイミングがあわない、絶望的なまでに遅れる、あるいは早すぎる。出遅れ、先走る。


 実存主義的な捉え方もできるけれど、でも、自分の中に埋めがたい時差みたいなものがあるからか。レヴィナスはそれを「隔時性」と呼んだのか。


 自分は誰かとだけでなく、世に棲む限り、なぜかなにかから引っ剥がされていると感じるように出来ていて、それが「内部」と「外部」を構成してしまうのだろうか。


 周りはこうだけど、自分はこうという「個性化」もある意味でひとつの「隔たり」である。けれど、それがなかったら、生きてる感じがしない。生きている感じがしないけれど、「隔たり」が様々な事情から根本的な裂け目を形成したら自分を裂いてしまう。


 
 べてるの家の向谷地氏の理解では、精神病者は自ら裂け目となることで、周囲を引き裂き、あるいは結びつけるようにもなり、自分もそのことに気づくことで、病気がちがう次元に移行するように言っていたように思う。


 人と人があることが常に、そのように様々な裂け目を寄せ合って、なんとかつながっているように見えるだけかもしれない。その事実はいつも忘れがちだ。その忘却に無闇な多弁や、苦しい沈黙が訪れるのかもしれぬ。