細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

放射線影響しきい値なし仮説すら認めないのはまずい。だが今のICRPやBEIRの基準の根っこにある原爆被ばくデータは内部被ばくの影響や被ばくの実情を公正に反映していない恐れがある

放射線影響しきい値なし仮説すら認めないのはまずい。だが今のICRPやBEIRの基準の根っこにある原爆被ばくデータは内部被ばくの影響や被ばくの実情を公正に反映していない恐れがある」


放射線の低線量域での影響は「わからない」のではありません。それならLNTしきい値なし仮説が現在の放射線影響のスタンダードである理由が説明できません。私の調べたところでは疫学、病理学の双方から、「影響がないしきい値」を引けないというデータや見解が蓄積されていて、それが最も確からしいという説明の仕方をBEIRやICRPはしていると思います。
その時BEIR7はこう説明しています。低線量域での影響が、直線仮説より「多い」という見解があるがBEIRは採用しない。同時に直線仮説より低線量域での影響は小さいともいえない。
ゆえに「直線的に増加する」という説を採用する。
私の理解では例えきれいに直線を引けない統計学的データがあったとしても、うまく検出可能な有意差がないポイントがあっても「うまく検出できない」ということは言えるかもしれないが、「わからない」わけでもなく「影響がない」とは全く違う。ここで放射線のワンヒットによるDNA切断と誤修復をBEIRは見るわけです。非常に小さな一本一本の放射線がワンヒットで切断と誤修復を起こす確率がゼロではない。
ゼロではないというのが原理である。誤修復から免疫系をすり抜けてがん細胞が生まれる確率が否定できない。
これは非常にミクロレベルの確率論ですが、BEIRはそれをしきい値なしの根拠にしています。

しかし、私はICRPやBEIRを信頼しきっているわけではありません。BEIRなどが認めている通り、原爆放射線の被ばく影響は1950年までのデータがLSSにはありません。ゆえに推計で、後から補っているだけなんです。
またフォイエルハーケやスチュワートが懸念していたように、原爆被ばくの比較検討は非被ばく者と被ばく者を比較したのではなく、3キロ以内の被ばく者と3キロ以遠の被爆者を比較したものです。
3キロ以遠の被爆者を対照群に使ったのは、3キロ以遠に直接外部放射線被ばくがないと仮定し内部被ばくを切り捨てていたのです。NHKが今年特集したように、3キロ以遠の被爆者は、放射性降雨や降下物にさらされ、呼吸、飲食やβ線皮膚被ばくをして、どうも内部被ばくの寄与により急性症状が出ている恐れがある。当時のデータを最新のコンピュータ解析で、分析した結果わかりつつある。
内部被ばくの寄与は予想より大きいということは広島大学名誉教授大瀧慈氏の国際研究でも明らかになりつつあります。
原爆被ばくデータの再検討した場合、内部被ばくの人体影響のリスク評価自体が変わらざるを得ないかもしれません。
よって、私はICRPやBEIRの見解の採用にすら慎重です。


とにかく、広島長崎で行われた、民間の危険を示唆する研究を無視しないこと、被ばく者の証言と当時の医療や住民データをしっかり検証すること、放射線影響研究所が公開してないデータを極力公開させること、国際的な放射線影響評価機関がそれを直視すべきこと。

原爆は最初の核兵器使用でデータは国家や研究機関が秘密裏に管理し、被害者の権利を踏みにじり、民間の研究や証言をはねつけてきました。
そんな政治的に歪んだ原爆のデータをICRPは使って戦後原発放射線リスクをはかってきました。
それを強く信じ込むのは危ういと思います。

「天皇ご聖断」神話への強い違和感

「聖断」神話。
東南アジアの島々の方々の命が失われ、沖縄の住民が米軍日本軍に殺され、全国都市が爆撃され、原爆投下されたあの被害を人々が我慢するという前提なしに8月15日敗戦が「速やかで素晴らしい判断」だったという神話は成立しない。

あるいは、支配者として天皇が、国体つまり支配者としての自分と、仲間たちの生存を優先したことを隠蔽することなしに成立しない。
いや、臣民の命を守るのは私たちだと抗弁するかもしれないが、東南アジアの島々の人々、沖縄の人々、全国で空襲に焼かれた人々、原爆に焼かれた人々にそれが言えるか?

はっきり言って、私にはそれだけの人々を失わせた天皇と政軍の関係者を許せる気持ちもないし、理屈もない。

天皇がいなくなって、ソ連と米軍が日本を奪い合ったらどうなってたかと言われても、だからと言って、朝鮮半島を戦地にし、分断させてはいけなかったと反問できる。

結局私たちのマインドは鬼畜米英と朝鮮蔑視のプロパガンダで未だに塗り固められていることになる。

せめて私たちを縛っているプロパガンダとかイデオロギーを認識しないで、私たちが解放される日はない。

私たちの過去が血塗られていることの認識なしに、この社会を良くしようという感覚、アジアの国々の人々を差別せずに平和を作るという感覚は生まれない。

過ぎたことの総括なしには。

あきらめずに感じ考えてやっと人のあたたかさが感じられつつある気もする

原発とか天皇制とか、難しい政治の話を書いてるように見えますよね。

違います、私の場合、あれは、私がぶつかってきた現実、リアリティ、心に感じたことを納得するまで、感じ考えてきて書いてるんです。

原発は中学生の時に考えたのが初めてです。
チェルノブイリに感じた怖さと、風の谷のナウシカについて感じた深い精神的な衝撃、もんじゅやJCOの時もモヤモヤしてました。
しかし深く突き詰められなかった。
311を迎え、時すでに遅し。
でも、とにかく考えるしかない。
環境が汚染され、それが数十年から数万、数億年に渡る。私たちが生み出してしまったものは、私たちで担いきれないという意味で、これは人類の限界です。

私たちは限界を知って生きねばならない。
でもそれは原爆や731、ホロコーストの時から提示されていた話だ。
また、戦争で危うく生き延びた祖父も、生きている中で、あの戦争が深い影になっていたのは感じていた。
社会派だからじゃなく、自分の深いところの話を、政治はめんどくさいから知らんみたいな処理はできない。
ここで、妥協できないから生きづらかった。

大学の時山本という政治学者に、民主主義について教わった。
山本先生は、歴史や思想に深い造詣があり、政治や社会の問題を必ず、人の生き方や歴史の中で生きている考え方や感じ方と関連させて考えていた。

私は自分がなぜいじめられてこんなに辛いかを考えていた。日本人の多数派のあり方が私を追い詰めていると感じていた。
戦争や原発の間違いを認めないで勝手な決まりを押しつけるありかた。民主主義がないから、一人一人の感じ方考え方がまず大事にされないからだと思った。

感じ方や考え方の問題をまずニーチェを読んで考えた。たった一人で感じ考えていくことの厳しさ、生きられないかもしれないという厳しさを感じながら大学を出て、詩を書いたりしてきた。
やがて、精神疾患発達障害のことを考え、私が独特であって、仕方ないしかまわないと考えるようになってきた。
それを愛し認めてくれた人に感謝している。いま、そしてこれから愛してくださる人を思う。

私はやはり突き詰めて考える。
イシカワはなんでこんないつもキリキリしているのだと。
しかし、私は今まで納得いくまで考え感じないと生き延びることができなかった。
その個性を肯定してくださる方、私の言葉から何かをひきだしてくださる方がいるのだと感じることがやっと感じることができるようになりつつある。

私は嫌われたり、嫌がられたりばかりが気になっていたが、私のあり方を肯定してくださる方がいること。それを感じるようになるまで40年以上かかった。
そのような信頼というもの、互いの違いを知ることにしかこの社会は一秒たりとも続かないってこと。

天皇が安倍総理よりマシというのは、倒錯ではないでしょうか。天皇の戦争責任は「深い反省」で済まされるものなのでしょうか。

 


終戦72年、追悼式に6200人 首相、加害責任触れず:朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASK8G3G93K8GUTFK005.html
天皇陛下が「おことば」を述べた。「深い反省」という表現を3年連続で使い、「戦争の惨禍が再び繰り返されない」こと」

このような記事を見て人々は、天皇はエラく安倍総理はダメだと思うのかもしれない。
果たしてそうか?
天皇の「戦争責任」は「深い反省」で済むのだろうか。
倒錯があるのではないか。

天皇と総理であれば、当時の地位として、天皇統治権全体を総覧する地位で、神格さえあった支配者で、総理はせいぜい行政長である。

現在は天皇は象徴と化しているが、太平洋戦争後、極東軍事裁判が下した判断は、天皇はそもそも訴追すらされていない。
アメリカ以外の中国やオーストラリアなどは天皇を戦犯として責任を問うという論調であったにもかかわらず。
他方戦時の総理東条英機は死刑である。
あまりにも不公平な処分である。
天皇が戦局をどのように把握していたかは様々議論があるものの、国家の最高責任者が無罪放免であったことの歪みのツケを私たちは今払っている。

安倍総理は、確かに論外だが、天皇明仁は「深い反省」と述べるにとどまっている。
天皇裕仁の戦争遂行責任、天皇明仁戦後責任は反省で済む話なのか。
一度も地位を下りるなどの責任らしい責任を取っていないわけだから、反省より必要なのは、天皇の責任を人々が議論する機会、場所であり、議論を経てくだされる天皇に対する具体的な処分なのではないか。
それは天皇が人気者であるかに関係なく、いやむしろ人気者で人格者と言われるからには通過しなければならないように思える。

天皇という存在が、私には日本の平和の象徴というより、「不透明な日本の平和の象徴」に思える。
そのような不透明さが、安倍総理の不可解な改憲姿勢やデタラメな閣議決定にもあらわれている。
天皇という存在が、私たちの民主主義や主権概念を不確かなものにしてはいないだろうか?
なぜなら、近代民主主義とは違い、天皇世襲制であり、世襲制により政治的地位を築いているからだ。
これは生まれによる差別を禁じた日本国憲法に矛盾しており、また、戦争指導者の子孫が天皇の地位につくことで、日本の平和主義を不透明なものにしている。
安倍総理A級戦犯容疑者の子孫であるのと同じようにそれは問題であるように思う。


少なくとも安倍総理より天皇明仁がマシという倒錯から私たちは抜け出すべきではないか。

 

【詩作品】切り刻まれて、時間が、その中でも今日も今も

とてもこわいから慎重になる

指がふるえて

その顔は

意味深く、謎で

そこにある時間は

昨日とか今日とか未来を超えて

今の中の今なのです

 

とてもさびしかった

とても

時間は伸び縮みして

どうしたらいいかわからない

あっという間だった

少し笑う

笑う影に孤独と安堵と喜びのしるしがある

 

何事もなかったと言える

話過ぎても

何を話したことにもならない

話さなくても話しても

すべては伝わっていく

見えない言葉で

 

 

軽い会釈をする

パーをつくる

時間が止まって

また動く

 

人間はまもなく

死に絶えるのでしょうか

キラキラとさみしく青い草原を

それでも私たちは

意義深く生きようとするのでしょうか

生きている

放射性核種が

崩壊して

宇宙の時間に切り刻まれて

仲間が、鳥が、蛙が

私たちの血と涙が壊される

 

それでもかけがえのない時の中を

私たちは

微笑んで

いきているのかもしれない

 

【詩作品】意味のわからないのは、あなたときっと同じ

なんでこんなに苦しいか

あなたに知ってほしい

だけど私だって苦しさの理由はわからない

わかってたまるかということ

不器用過ぎてどちらに進んでるか

わからない

進まなくてもええんちゃうかとも思う

小さい頃よりは

まだ少しは見えるようになってるし

けれど

見えない頃には

今より

もっとさみしい空があって

私は生まれてきた意味のわからなさを

抱きしめて

泣いていた

今はその名残を生きているだけかもしれない

あなたも一緒に泣けばいい

意味がわからないのは

同じなんだから

ヴァルネラブルなわたし。わかってほしい微妙なわたし。

むかし、山口昌男という人類学者が、イジメを受けやすい人はvulnerableな存在だと言いました。
ヴァルネラブルとかバーナブルとか言います。

これを読んだ時私はなるほどと腑に落ちました。

攻撃にさらされやすいとかいう意味です。

例えばレッテルを貼られたり、非難にさらされやすい人々がいます。
障害者や被差別者や妊産婦などヴァルネラブルな人は、一般市民から誤解され攻撃を受けやすいのです。

私は若い頃は自分のことを被差別者や障害者だとは思っていませんでした。
しかし精神的にボロボロになり、自分は障害者ではないかと考えてみて、若い時から頑固でナイーブだった自分を思い出しました。

イシカワさんは普通の人にしか見えないとか、傷つきやすいのも個性だと言われたりします。
しかし、普通に見えてあまりそうじゃないという特性、傷つきやすく、いつまでも辛さが消えない、それによって、自分が適切に理解されず、傷つき、嫌な思いを受けて来たから、例えば善意や親切心も、私は素直に受けられません。
小さな時や若い時に、元気がなく、おどおどして何もしない自分に、親や友達や先輩に、体を鍛えたらとか、チャレンジしてみたらとか善意で教えてもらいましたが、それとは違う問題なので、悲しくなりました。

今では自分で、納得してヨガをしたり、市民運動したり、勉強したり、私も40年かかって、ここまで来ました。親と分かり合ったり友達や知り合いに説明し、わかってもらうにもここまでかかりました。

その観点から芸術や福祉や社会問題について発言しています。