そのもの自体の等身のままあらしめ、それが生き、そして耐える(絶える)ことをよく感じ、よく見ることだ。
どうせ死んでしまうと昔中島何某は述べたわけだが、どうせ死んでしまうのは事実である。しかし「どうせ」が余計な気もする。「どうせ」が付くとやっぱり言い訳や弁明に近づくんじゃないか。
「どうせ」死んでしまうとか、そういうことをいっているときもある。そういうことがないこともある。そういう中で、ではそういう君/俺は一体全体ひとつらなりのあり方としてどうなんだいということだ。
愉快なのかな、不愉快なのかな。
必要なのか。そうでないのか。
もちろん俺の身体はバラバラになりそうだ。
やけくそになり、自分というものを脱ぎ捨てたいくらいだ。そういう苦痛が気分の良さが、生きている限り続くわけだ。
忘れたり覚えたり、忘れまいとして同じことを繰り返し、ずっとずっとなどと願ったりもし。
風のこそばゆさに、思わずくすぐったいような恥を感じ、あれ俺生きているなおかしいなと感じることもあるのだ。
これは俺の話だ。
そして君や君たちやあの人たちの話だ。
実存という言葉や、そこにあるということという言葉で、なんとかいわんとしていたことは、そこに生じるもので、「どうせ」といってオシマイではない。むしろ、「どうせ」という未生以前の言葉を噛みしめて立ち上がる、座り込む覚悟である。
覚悟や責任というと、嫌な言葉だと思う。
だけど、自分がそこにいることで生じている責任は、それが耐え難いものであることとは別に、ただそれとして誰にも感受されている。感受されていないように見えてもそれはそこに既知ではない仕方で感ぜられているのだ。
ただ責任とは病気の俺にはキツイ言葉だ。俺はその重みに耐えかねる。だが、そこでできることを考えたりしたりしている。
それが重いものではない。あるいは重さ軽さではないということが感じられる。量るのではなく感じるということが先んじるほうが、なにかまっとうなような気がしている。
もちろん毎日毎日「責任」や「罪責」や「自覚」におつきあいしていると身がもたない。
そうでなくても、なぜか俺の心身は痛む。
ただ、ただ、しかしくすぐったいような、奇妙な風や光や匂いを感じるようになっている。
病にかかって、それらの多くが感じられなかったのが一番悲しかった。
今は感じつつある。
もう無理をしない。無理をすれば、言葉や俺自身がきしんでしまう。それでなくても生きるだけで俺らは軋む。
でも、ただ静かに生きられるものを絶やさないようにしよう。どんな表現をしても間違いをすればそれはすぐ消えそうになる。
倒せばいいわけではない。倒してもまたそれはよみがえる。
それをそこにあらしめることだ。その境界がわからなくなった今でもそのもの自体の等身のままあらしめ、それが生き、そして耐える(絶える)ことをよく感じ、よく見ることだ。
よく感じ、よく見、よく知ることだ。
よく知ることの行いをすることだ。
それは責任だ、なんだという重苦しい議論とはべつの色彩で、そこにあることの確かさが描かれうるようになる。そう思いながら書いていきたい気持ちがしている。