ジジェク読了
ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)
- 作者: スラヴォイ・ジジェク,栗原百代
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/07/07
- メディア: 新書
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バディウの本や、柄谷の話がよく出てくる。きっと最近いろいろ話していたり本を研究しているに違いない。
最近ハーバードのサンデル教授の講義がNHKで放送されたりしているものの、そういうアメリカの思想ではあまりお目にかからないのがコミュニズムなのではあり、思想がどうたら言う割にはノーマーク状態になっているのは否めない。
フーコーやレヴィ=ストロースやレヴィナスやドゥルーズもマルクスの影響権の中にあるのに、マルクスがきちんと論じられていないきらいがある。
といっても昨今コミュニズムというか左の発言力が目に見えて後退しているとはジジェクもいっていて、そういう状況にジジェクの本が「切り込んでやる」というところだったのかもしれない。
ハイチがフランス革命の理念から大きな影響を受けた最初期の独立国家であることに注目して、あまりにも早すぎた、そして先進的過ぎたことで逆に高度な資本主義構造に取り込まれ、後に様々な勢力の巻き返しを食らい、今日苦境に陥っていると指摘する辺りへえと思った。あの地震であまりにも脆弱なかの国の様子に驚いたのだが、地震で大きな被害を食った裏にはそういう歴史がありそうだとは思っていたのだ。
あまりにも早すぎる、あるいは遅すぎるということがあるし、思想というのは水物だから、時流に棹差そうとする限りそうなってしまうのかもしれない。そして時流にぴったりした思想や運動があまり衝撃力を持たないようにも思うのだ。(ジジェクはスタ○のフェアトレードなんかちゃんちゃらおかしいとか、グリーン資本主義みたいなものしかもうないのか情けないなあとか、時流にぴたっとしているマーケティングの欺瞞にもきちんと論及している)
もちろんジジェクはある意味アジテーターばりに、煽っているふうでがあるのだが、様々な動きにコミュニズムが対応できるかどうかまるで未知数である。はっきりいって最後の方力説している割に空振っている気がしたし。
ネグリ&ハートに妙に絡んでいたり、そういう意味では頑張って時流に絡みすぎじゃないとか思ったりもした。でもネグリが変な持ち上げられ方をしすぎた上に誰もあんまりネグリがどうのといわなくなっているから、今こういう本で、ネグリをある種ポストモダン状況で存在可能な、それゆえにその状況に飲み込まれたコミュニズムというふうに批判しているように私には感じられた。それはけして悪い感じではなく、ジジェクの時論家としての才能が出ている。
ジジェクはカントやヘーゲルを絡めながらこの本の冒頭でもヘーゲル哲学はこの時代にどう生き残れるか、カント哲学はどう生き残れるかではなく、ヘーゲルからみて現在はどんな時代かと考える必要があるといっている。またフクヤマの歴史の終わりは冷戦終結後のある時期にたまたまそう見えただけに過ぎないといっている。私も同感である。
歴史に一定程度敬意を払っている気もし、いやそうでもなく時局を論じるのに便利に使っている風でもあるが、そもそもどういうふうに歴史状況に切り込むかって、難しくて。革命とか運動ってそういうところがあるんだなと思う。
だってジジェクもいうように資本主義がどんどん自己変革していくものなんだから、それにどう変革を突きつけるかって凄く難しいのかもしれない。
なるようにしかならないとかも思ってしまったり。時論って実は難しいのね。ジジェクの本で再認識した。