安全地帯は存在しない-21世紀から20世紀を思い出す
思想や議論いや生活においても「安全地帯」はないのである。それは理想社会が到来してすらそうなのである。もし圧倒的に優勢で他者から批判を受けない場所から、他者を批判し自分の正義が押し通せるなら非常に恐ろしいことが起こる。
20世紀はひどい時代だと言う人がいる。環境破壊、商業主義、核兵器、息苦しさ。しかしながら、その中で人は懸命にあるいはなんとなく生きようとしてきた。そして、人間が互いに害をなすような存在である時、そこでどのような共存の条件がつくられるか、まだこれといった解は見つかっていない。
ただ覚えておかなければいけないのはそういう中で、20世紀の思想は「他者」というキーワードを探し出した。それは自分が言いっぱなしでいい気分にはなれないという冷や水のような言葉だ。
サルトルは「アフリカの飢えた子供の前で文学は何ができるか」と問うた。おそらくこの問いは様々な批判を浴びてきた。しかしその言葉に含まれるのは、ただ「アフリカのこども」だけではない。それどころか、「何ができるか」と問う地点もある種の安全地帯なのだ。ここからサルトル以降の思想家は他者をさらに問うていったのだと思う。
私は何もできない。する必要があるのかすら不明だ。苦しむ人に、貧しい人にとカテゴリー化する中で個々人のその人そのものはすぐに失われてしまう。
だから知らない間に、共存在として生きてしまっている私には、今はまだ知らないが絶えず誰かの利害と接続され、あるいは分かたれているのだ。
今ここに生きるということの中に、引き受けようと引き受けまいと、時々刻々生成し消滅する誰かや何かがいる。その中で、安全地帯は存在しない。私は孤独だ。しかしこの孤独が、ものを考え、誰かにつながりうる可能性を有している。
関係妄想でも、被害者意識でもない、そういう「他者」との遭遇。20世紀の後半を私は育った。そこに自分の生きてきた背景がある。それは疑いようのないことだ。
他者は倫理的な所与ではないだろう。与えられたものでも選び取られたものでもない。それは私たちが苦境を脱出する通路で出会ったひとつの壊れやすい、しかしながら厳然とした可能性なのだ。