細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

やっぱり

労働とか労働力っていうことがちょっとは理解できたらと思っている。
そうすると必然的にマルクスを通らないといけないんだろうかな。
なんでか知らんけど、マルクスにも勝手な敬遠をしている。

とはいっても、学生時代、マルクスの「ドイツ・イデオロギー」と「ヘーゲル法哲学批判/ユダヤ人問題によせて」と「経済学・哲学草稿」は読んだように思う。
しかしあんまり中味覚えとらん。僕が大学時代というと1992〜96年で、実は日本のバブル崩壊以降の経済危機と対応していました。しかも日本社会には明らかにマルクス主義への幻滅もありました。それは日本社会による戦前のあるいは戦後のレッドパージとどうちがうか不明です。案外近いのではないか。それと共にマルクス主義の運動方法にも問題があったのでしょう。どちらも重大な問題です。自分は障害者施設に関わった時実際非常に厄介な左翼運動家出身の人と何人か話したことがある。みんな頭が固い。僕も固いからぶつかる。そういう個人的な苦い記憶はありました。

かといってそれを共産主義だけの問題として個別化するよりは、社会そのものと社会や国家の持つしんどさをどうするかという感じにもしたいのです。しかし知識がないので勉強しないかんのかなとも思う。けっこうしんどい。蟹工船が映画化されても?なんです。

「自分が働くのがしんどい/いや」という心の核にある問題をなぜそう感じるのか地道に問い尋ねたいと思っている。それは実は文学ともつながっている。

文学もその作品も生産活動とその生産、あるいは労働と近い側面がある。
でも売れる詩ってのは天声人語で紹介される茨木のり子谷川俊太郎加島祥造なんかだったりする。みんな一時代を画した本質的な仕事もあるわけだが、どうしても道学者風の「生き方本」みたいになる。どんどんあいだみつを化していく。
でも、僕はあいだみつを化を単純に毛嫌いしてもしょうがないと思っている。でも商品経済の中に入り込んでいて、そのいいところも、さらに「わるいところ」をも正当化する作用があると思っている。いや、それどころか「こころ」を持ち上げることで、商品経済の制度や、物象的な何かをうまくにおい消しすらしている気もする。

かといって、そういうのがダメだからってわけのわからない詩を書いて悦にいっててもやばいような気もする。昨日葛西善造を取り上げたけど、葛西作品に出てくる会話は今のお金のない人にとっても他人事でないくらいリアリティがあるの。そういうのが大事です。文学による現実の認識です。それは社会科学とどこかでつながっているんです。ルソーは社会科学者だし、文学者だという具合に。

たとえば山之口獏にも「お金」とか「生活」を具体的に考えた詩はあるのですよ。山之口獏の詩に高田渡が曲つけて歌っているのだ。それは生活の柄という詩だが今日は「賑やかな生活である」を引こう。

賑やかな生活である/山之口獏

誰も居なかつたので
ひもじい、と一声出してみたのである
その声のリズムが呼吸のやうにひびいておもしろいので
私はねころんで思い出し笑ひをしたのである
しかし私は
しんけんな自分を嘲つてしまふた私を気の毒になったのである
私は大福屋の小僧を愛嬌でおだててやつて大福を食つたのである
たとえ私は
友達にふきげんされても、侮蔑を」うけても私は、メシツブでさへあればそれを食べるごとに、市長や郵便局長でもかまはないから長の字のある人達に私の満腹を報告したくなるのである
メシツブのことで賑やかな私の頭である
頭のむかふには、晴天だと言つてやりたいほど無茶に、曇天のような郷愁がある
あっちのほうでも今頃は
痩せたり煙草を喫つたり咳をしたり、父もいそがしかろうとおもふのである
妹だつてもう年頃だろう
をとこのことなど忙しいおもひをしてゐるだろう
遠距離ながらも
お互さまにである
みんな賑やかな生活である

だれも聞いてないところで「ひもじい」といってしまう。しかしだれも聞いていないというのもあるが聞いてくれはしないという孤絶の感覚がある。お金がないと実際に町を歩いていても商品を買えないからだんだん周囲から感覚的に遠くなる。これも立派な孤独であり、ほとんど商品で取り巻かれている今の社会ではこれは相当キツイ。山之口の時代もほぼ同じであるが、これは「メシツブ」を食えなくてという飢餓感そのものである。
しかしよく金がないというなら理解可能だが、そこで感じるものすごいさびしさがあり、それは恐らく「修行」ではなんとなく解決不可能な気がしている。これは実感である。時間の見通しも変わる。
ここで山之口に流れる時間はどう考えても、タガがはずれている。だからよろしくやっている家族は事実としても、心象の中でも「彼方」にある。
逆に街金に手を出したりしたことは私はないが、来月から所得がないということは何度か体験したので、そこではもう明日はどうなるか焦って失調する時間がある。

山之口の詩は誰にも自分の声が届かないことを表している。その届かなさは少しいい気分を伴うが、巨大な諦めや絶望とその延長にあるへたり込む感じを背中合わせに持っている。
山之口の詩は人気がある。しかしこの人気の秘密は、お金がないとか働きが、労働がまるで芳しくないことへのリアルな山之口の認識を捕らえた上でのものか僕は疑っている。
山之口は脱力しているともいえるし、力を奪われているともいえる。しかしその正体を簡単になにかの陰謀のようにいうことを山之口は決してしない。

詩にすることでぎりぎり何か社会科学としての貧困や労働を考えることとちがう味わいが生まれる。経済や社会を考えるのにこういう道も加えながら考える必要があるとおもいます。海外の昔の政治経済学者はそういう人も多い。マルクス自身も該博な文学の知識がありました。もちろん新自由主義の祖(本当は今のそれとはかなりちがう)のハイエクも哲学好きでしたし、ケインズも幅広く人文教養をもっていました。あの当時のケンブリッジだから。

山之口貘詩集 (現代詩文庫)

山之口貘詩集 (現代詩文庫)