細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

「発達」について考えてみる2

今日は前回のエントリ「発達」について考えてみる - 細々と彫りつけるで紹介した浜田寿美男氏の
以下の文書を2/3ほど読んだ。
http://www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp/pdf/kiss200628.pdf(比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.6.28)
最初に出てくる甲山事件への関わりだけでも読むとけっこう引き込まれます。ここで証言者となった甲山学園の入所児童の話が出てくる。

考えてみると、彼は言葉の力を確かに伸ばしてきたけれど、ではどこでその言葉をどう使ってきたのかということを考えると、先ほど話した普通の家庭での会話を話しましたが、施設では母親が子どもに「おはよう」と言って、「朝ご飯なにをたべたいの?」という訳にはいきません。50人が一斉の食事です。例え尋ねられて答えたとしてもそれが実現するということにはならないのです。食事の後のテレビも50人で1台のテレビですから、観るか観ないかを選ぶことはできても、何を見るのかということを言葉で伝えても空しいわけです。遊びとか、勉強とかもありますが、施設の中では自分の思いを言葉で伝えてそれが叶うという経験は、やはり十分は味わえない中におかれてきたのです。言葉を使ってのおしゃべりだとか、遊びは十分可能だっただろうと思います。だから、言葉の力は伸びてきたのかもしれません。しかし、遊びや母親とのおしゃべりの中で言葉の力が伸びるということは確かにあります。現に子どもの言葉について悩みを持っている母親と話をするときに、「一緒によく遊んで下さい」と言います。
だけど、本来の言葉は、遊びとかおしゃべりの中で終わらないのが本来の言葉であって、生活の流れを共有するもの同士として、親子が共同の生活を作っている。その中で自分たちの思いが言葉に託されて、相手に受け止められて、生活の流れの節目節目に根を下ろしていくというというかたちになっているはずなのです。残念ながら、彼の場合はこのようなかたちになっていたとは考えられないのです。

なるほど「学ぶ」「教える」ということはいつの時代も強調されてきた。しかし、覚えた言葉を生活の中で、日常の世界で使う。子供が子ども自身の力を使うことで得られる感覚をわたしたちは大事にし、されてきたのだろうか。

覚えた言葉をそのまま「言う」だけでは、それは実は言語にならないのである。それを身をもって使い、相手とのやり取りの中で、生かす、あるいは壊される。あるいは言葉にはそれが目がけるものがあるということ。楽しいというとき、楽しいことや、楽しいといいたい相手が想定されていること。その存在を感じること、不在をさみしいと思うこと。
そのような体験は自然に培われるとわたしたちは思い込んでいる。そうだそれはある程度自分でやることだ。しかしその「自分」が形成される過程でハンデを背負ったことと、そのハンデの上に、他者がいるようでいなかったこと。そのような施設形態や仕組みがマイナスに作用したこと。その孤立無援を「言葉が根を下ろしていない」と浜田氏はいうのかもしれない。

「私」とは何か (講談社選書メチエ)

「私」とは何か (講談社選書メチエ)

僕が今浜田氏の上に挙げた本も読んでみているが、それはまだまだ読み込みが足りない。ただ、そのように「当たり前のこと」を疑い、その形成プロセスの根に「下りる」ことを現象学にヒントを得て「還元」という。しかし「当たり前のこと」を疑うといっても完全に疑いきれるわけでもないということも強調している。研究者とて自分の自己中心性から逃れられないからだ。この「自己中心性」を浜田氏は「人が個別の身体で生きざるを得ない」事情から発するとしている。この結論がどこまで妥当かわからないが、「純粋客観」に立てるかのような幻想への解毒剤にはなる。

まあぼちぼちやります。