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変えてみた!
さて…もう我慢して無理したりする必要はなくて、しっかり感じ考えることで、自分にとって善きこと・楽しいこといわば自由であることはできる。いまこの瞬間に。そして失われるかもしれないのだが。
私たちはなぜ隷属が好きだったのだろうか。隷属し、自分で好きなことをやらないことで、争いが生まれるのではないだろうか。
いや、そんな批判をしても仕方ない。
争いがあっても変じゃないという平生の意識なしに、争いは無くならない。争いの効力を止めるには、その呪いを壊すには、争いを現に存在する事実としてただただ認識すること。
思ったことをいい、したいことをしてみる。それによってしかはじまらない。何かに依拠しているとしても、そこで何事かをするかしないかということしかない。結果のあるいはリスクの予測はしてみるものの、完全はない以上、やってみたりやらなかったりして生じてくるありのままで考え、手がかりにするしかない。
それは文学でも政治でもアソビでも暮らしでもなんでもそうじゃないのだろうか。生きているということを感じながらしか、人は考えたり考えなかったりすることができないのではないだろうか。
自分の欲望や願いや、促される力のままにいくことでしか生きているとか死んでいるという事実もない。その結果、欲望の悪や善を知ることができるのではないか。つまり私はまだ充分生きたとはいえないし、昼寝したって、勉強したって、遊んだって、働いたって、それは誰かの意見によってするのではないのだ。自分というのは不確かなものだ。それは得体の知れないものだ。たとえば文学をするのであればその認識はもっていただきたい。
自分が恐い人間だとおどしてどうする。みんな人間である限り恐ろしいし儚いし健気なはずなのだ。
得体の知れないものを分析するのはよい。しかし得体の知れないものはすぐ死んでしまうのだ。
逆説的だがありのままで受けいれろというのは、その願望自体がちょっと変だと思う。ほんとうにありのままを示そうとすれば、真面目にやってくれといいたい。
またチェックするだけで楽しいのだろうか。その真面目さを肯定する力の育成に向けていただきたい。
つまり今の政権にしてもそうだが、決定的にないのは真面目に気持ちを傾注することで充実をえることをこの国は目指さず、そこそこの隷属や支配しかないということだ。もちろんそのほうが安定する。しかし先の大戦でそれが仇となったのだ。
日本にも新自由主義というのがあったが彼らは搾取しか考えない。彼らは自由は嫌いだ。
隷属と支配がかみ合ってないからと云って素敵な上下関係を目指すよりは、自分の師を求めてまた師等なくても自分の人生を作るしかない。自分が出来ていないからこそ私はこれを自分にいってやりたいのだ。