細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

日本の戦争責任からの逃避とアメリカの原爆使用の罪からの逃避が、安保体制と内部被ばく軽視に帰結。この流れは福島原発事故につながってゆく

日本人は原爆被ばくの謎が解けていない。原爆被ばくは、アメリカとそれにつく日本が作り上げた核体制の被害評価の根底にあります。それを外部被ばくだけの被害に抑え込んで、核実験と原発開発を強行したのです。
被ばく問題は、戦中から戦後世界支配までを貫く日米核体制の交差点にあります。

 

日米核安保体制は、相互依存関係です。
非道な世界初の核使用により、戦争を終わらせ戦後世界の覇者となったアメリカは、自らの核使用の原罪を問われたくない。日本は天皇中心の国家体制がアジアを巻き添えに無茶な戦争をした戦争責任を問われたくない。
その二者のご都合が日米同盟を生み出したのでは?と私は思います。
日本という最初の核被害国に、原子力発電を開発させるのは、世界最大の核と原子力PAになります。アメリカはプルトニウム量を監視し軍事転用をさせない。他方日本はアメリカの非道な原爆投下やアメリカの侵略戦争を不問にし、むしろアメリカを支援する「平和憲法の国」としてアメリカは日本という「核被害国」で「平和国家」に戦争を手伝わせ、戦争に正義の意味を付与します。他方日本は、平和憲法の国として、アメリカの戦争特需を通じて科学技術と経済を発展させました。

自分でも怖いほど腑に落ちる仮説です。

そして、日米の相互依存的な核体制を支えるのが、核や原子力は、生物と人間の存在と尊厳を危機に晒さないというお話=内部被曝大したことない仮説です。
原爆の放射性粒子を無数の有毒な微粒子とみなした場合、核兵器は、大量破壊する爆弾の要素と毒ガス兵器の要素を併せ持ちます。
内部被曝が平気なら、核兵器も通常の爆弾の延長になります。なぜなら、致死量の外部被ばくを浴びる位置にいるなら、放射線障害と火傷、両者の複合で死んでしまいます。日本政府が2キロ圏以上の原爆症認定を渋るのも背景にはアメリカのTDやDSの核被害評価があるのではと私は思います。原爆投下後、ファレル准将は「死すべきものは全て死んだ」といいました。アメリカ軍にとって、内部被曝の後遺症で死なれると、核被害の非人道性が明らかになり世界から非難されます。だからアメリカ政府と日本政府は内部被曝や後遺傷害で亡くなる被爆者の情報が流れないよう、検閲をしたわけです。この事実は、繁沢敦子さんの「原爆と検閲」に詳しいです。圧倒的な支援不足と情報統制の中、地元医師や被ばく者が被ばくに悩む中、ABCCは被爆者の生体や遺体のデータ入手に奔走しました。彼らの犠牲を日米核体制は、都合よく切り貼りし、ICRP体系の権威付けと内部被曝の隠蔽に活用したわけです。

 

これらの機微を理解している被爆者や医師や研究者は亡くなりつつあります。
しかし、このような大掛かりな核体制による内部被曝隠蔽の発祥地が日本なんです。日本の足元の問題を見ずに、チェルノブイリや海外情報の話をするのみでは内部被曝解明には限界があります。

 

何しろ、世界最大の被爆者データを収集している長崎大学広島大学放射線影響研究所があるのは日本です。鎌田七男や大瀧慈は広島大学にいながら、内部被曝の重要な知見を積み重ねた人びとです。しかし研究だけでなく最後は被爆者の証言が重大なのです。

被爆者は、おそらく一生をかけて、原爆放射能に向き合わなければならなかったのです。彼らの証言こそが逆に科学的発見に正当性を与えるとさえ私は思います。
人間のナラティブと存在が科学に先行するとなれば、これは科学文明にクサビをうつことにもなるし、私たちの倫理の核心にもなるでしょう。

私たちが原爆の被害を知ろうとしてはじめて被ばくについて、確かさを持ちうるかもしれません。なぜなら私たちがなぜ核を原子力を許せないかの理由がわかるから。
原発事故と核被害の原点から、戦後のそして未来の世界を見ることができるから。

 

いたましい原爆被害と被害者の、核被害のすべての御魂に、祈りましょう。

 

これはここ数年の拙い考察から得られた見取り図です。

 

間違いもいくつもあると思います。仮説です。

 

ここから福島はつながるのです。

保守主義を理想視するのは少しやめたほうが。

「保守」というのは、国家や共同体や慣習の維持という意味で「保守」なんです。
故に何を守るかで話が変わってしまいます。

国家や天皇を守るということが一番にくれば、人々の命は粗末にされました。それが戦争です。


日本最大の保守政党自民党です。
彼らが守ってきたのは、自分たちの仲間である官僚や企業と自分たちの利権です。
日本には「自然環境を守る保守」「人の命や暮らしを守る保守」なんて上品なものはあまりいないでしょう。

石牟礼道子氏のような方は古典教養のある、水俣病から近代より遥か先を見通す文学者ですが、彼女を保守主義というのも変な気がします。

ダムや空港や原発を建てて、街や自然や故郷の絆を壊したのは自民党のような保守政党です。


それどころか、近年保守は「エコロジストは過激すぎ」「フェミニストはうるさい」「人権人権だとひ弱な!」と言っている人が大半です。
アメリカのコミュニタリアン保守主義かと思われますが、女性の権利や差別を是正する政策に反対する事が多いです。
彼らがいう「古き良き時代や家族のあり方」を守るのが保守です。

古き良き=男や父が偉ぶっている、です。
往々にして反動化するのが実情です。


ハイエクのように全体主義に抵抗した保守主義者もいますが、ハイエクはのちにネオリベの元祖として崇められてしまいました。ハイエクの意図ではなかったとは思いますが、ハイエクポパーは資本主義が生み出したファシズムにも、ソ連スターリニズムにも反対でした。

彼らの敵は、計画できるはずのないものを計画したり操作しようとするもの、結論ありきで、検証を怠った科学主義に向けられていました。

二人とも自由主義陣営の思想家ですが、本質的には近代批判の部分があったんでしょう。

それをあとから保守主義者が我が意を得たりと思ったのかもしれません。

しかし保守主義者が水俣や福島で目覚ましい活躍をした話はあまり聞きません。

むしろ石原慎太郎のように水俣病患者を差別する人や、曽野綾子渡部昇一副島隆彦のように放射能は平気だと豪語したり、、

別に左翼が偉いと言うわけでもないですが。


原発事故で、傷ついた経済を守るために、銀行や東電を維持しなきゃとか、とにかく絆だから放射能を気にするなというのが、保守の主張だと思います。

伝統や歴史を大切にするというのが保守の理念ですが、結局西部邁小林よしのり、籠池氏のような道を歩むか、利権を大事にして国家主義者として権力を握る森喜朗安倍総理のような人物が関の山です。

もちろん小林秀雄福田恆存のような、文学や歴史を論じて一流の保守主義者もいます。

疑問もありますが、その見識には傾聴に値する部分もあります。なぜなら、彼らは文学者として並外れた修練をしているからです。

福田恆存のように、戦後の平和主義の理想主義的な部分を鋭く批判した論文もあります。

平和主義を強くするために、論敵として学ぶ部分もあります。

しかし、保守主義とはバークの時からそうですが、フランス革命の殺戮や過激化した部分を憂慮するところから始まります。

確かに進歩主義は優生思想や自然破壊に堕した部分がありますから、わからないではありません。

しかし、保守思想と言っても様々だし、日本やアメリカを見てもわかるように、反共保守が核開発や戦争、原子力発電開発をリードしてしまった。

日本やアメリカの保守主義を見ていて思うんですが、特に日本の保守なんかは、男女平等が行き過ぎだと夫婦別姓にまで反対したり、理想主義的な平和主義を論難しようと核武装まで語ったり、果ては平和主義者が戦争はダメだと言うが、太平洋戦争で日本はよいことをしたと言ってみたり、単なる逆張りが極論化したりしています。

反論のための反論、現状打破と言いながら歴史や自然の保守はおざなりになりやすいようです。

安倍や百田や橋下を準備してしまった部分が大きい。

保守主義を理想視して原発事故以降起きたのは、政党のオール保守化です。
昔なら差別や偏見を正す役目をするはずの知識人や政治家も、現実論に遠慮し、強く戦うことができなくなり、維新や国民ファーストに吸収されています。

保守を理想視しても事態は改善しません。

障害を認識する、互いに尊重するということを一段踏み込んで捉えないと、善意でも差別になりうるということ

 

「障害者差別」というレベルではなく、障害者という「階層」に押し込められています。
それが日本の大半の障害者が置かれてる苦しい現状だ。

その事実を指摘すると「気のせいだ」「贅沢言うな」「個性なんだからいいじゃない」「自己肯定感をつけなさい」と的外れな反論が保守からもリベラルからも帰ってくるので、やはりマトモに考える気はないんだと。

私は別に好きで障害があると言ってるのではなく、個性的で面白い部分もあるかもしらんが、歴然と生きづらさは体験してきたし、それは「君が変な奴だから」「難しく考える人」とされてきたから、自分はそうでしかありえないないのだから、社会ももっと生きやすくなってほしいと、それを障害だと言ってる。

「気にすんな」とか「個性的」とかで話を済まそうとする人は「障害」というのが否定的概念だと気づいてます。しかし本人が気にしなければ、自己肯定感を高めればなんとかなると思ってる。
違うんです。本人がありのままで生きづらいとき、その社会の不十分さ、差分を「障害」と呼んでますね。

すべての特性の人に社会が合わせられるかはわかりませんが、不自由する人がいる、特性を生かしきれない人が莫大にいるということを企業や政治家は認識すべきです。
今のままでは、誰も楽しく生きていけません。

障害は社会のせいか自分のせいかという単純な話はしてなくて、差別ではないかと言ってます。
認識論的社会的心理的様々なバリアが障害者と社会の間に形成されている。
その形成されているものを解体せずになかったことにしてはいけない。

つまり互いの置かれた状況が違うという前提を持たなければなりません。私だって、ある時ある人には障害者かもしれないが、ある人に対しては強者として振舞うことがある。
で、私はうまく配慮できない特性だから神経をとがらせてやっと人並みです。ある部分では突出さえしてるかもしれない。

私は生まれ育って、親が障害者扱いしたことはありませんでした。親は自分の子を悪く思いたくないのと愛情と両方で、普通の子どもとして育てました。
しかし、微妙な違いが育つ中で顕在化し、いじめられっ子になり、感受性も敏感すぎ、心を病んでしまいました。

いじめられたり、病気になっていく過程で、いろいろ、他人が感じない痛みがあることがわかった。もともとの特性を直視してケアしながらでなければすぐにしんどくなることもわかりました。

最近では親も少しわかってくれるようになり少し安心してます。

 

放射線影響しきい値なし仮説すら認めないのはまずい。だが今のICRPやBEIRの基準の根っこにある原爆被ばくデータは内部被ばくの影響や被ばくの実情を公正に反映していない恐れがある

放射線影響しきい値なし仮説すら認めないのはまずい。だが今のICRPやBEIRの基準の根っこにある原爆被ばくデータは内部被ばくの影響や被ばくの実情を公正に反映していない恐れがある」


放射線の低線量域での影響は「わからない」のではありません。それならLNTしきい値なし仮説が現在の放射線影響のスタンダードである理由が説明できません。私の調べたところでは疫学、病理学の双方から、「影響がないしきい値」を引けないというデータや見解が蓄積されていて、それが最も確からしいという説明の仕方をBEIRやICRPはしていると思います。
その時BEIR7はこう説明しています。低線量域での影響が、直線仮説より「多い」という見解があるがBEIRは採用しない。同時に直線仮説より低線量域での影響は小さいともいえない。
ゆえに「直線的に増加する」という説を採用する。
私の理解では例えきれいに直線を引けない統計学的データがあったとしても、うまく検出可能な有意差がないポイントがあっても「うまく検出できない」ということは言えるかもしれないが、「わからない」わけでもなく「影響がない」とは全く違う。ここで放射線のワンヒットによるDNA切断と誤修復をBEIRは見るわけです。非常に小さな一本一本の放射線がワンヒットで切断と誤修復を起こす確率がゼロではない。
ゼロではないというのが原理である。誤修復から免疫系をすり抜けてがん細胞が生まれる確率が否定できない。
これは非常にミクロレベルの確率論ですが、BEIRはそれをしきい値なしの根拠にしています。

しかし、私はICRPやBEIRを信頼しきっているわけではありません。BEIRなどが認めている通り、原爆放射線の被ばく影響は1950年までのデータがLSSにはありません。ゆえに推計で、後から補っているだけなんです。
またフォイエルハーケやスチュワートが懸念していたように、原爆被ばくの比較検討は非被ばく者と被ばく者を比較したのではなく、3キロ以内の被ばく者と3キロ以遠の被爆者を比較したものです。
3キロ以遠の被爆者を対照群に使ったのは、3キロ以遠に直接外部放射線被ばくがないと仮定し内部被ばくを切り捨てていたのです。NHKが今年特集したように、3キロ以遠の被爆者は、放射性降雨や降下物にさらされ、呼吸、飲食やβ線皮膚被ばくをして、どうも内部被ばくの寄与により急性症状が出ている恐れがある。当時のデータを最新のコンピュータ解析で、分析した結果わかりつつある。
内部被ばくの寄与は予想より大きいということは広島大学名誉教授大瀧慈氏の国際研究でも明らかになりつつあります。
原爆被ばくデータの再検討した場合、内部被ばくの人体影響のリスク評価自体が変わらざるを得ないかもしれません。
よって、私はICRPやBEIRの見解の採用にすら慎重です。


とにかく、広島長崎で行われた、民間の危険を示唆する研究を無視しないこと、被ばく者の証言と当時の医療や住民データをしっかり検証すること、放射線影響研究所が公開してないデータを極力公開させること、国際的な放射線影響評価機関がそれを直視すべきこと。

原爆は最初の核兵器使用でデータは国家や研究機関が秘密裏に管理し、被害者の権利を踏みにじり、民間の研究や証言をはねつけてきました。
そんな政治的に歪んだ原爆のデータをICRPは使って戦後原発放射線リスクをはかってきました。
それを強く信じ込むのは危ういと思います。

「天皇ご聖断」神話への強い違和感

「聖断」神話。
東南アジアの島々の方々の命が失われ、沖縄の住民が米軍日本軍に殺され、全国都市が爆撃され、原爆投下されたあの被害を人々が我慢するという前提なしに8月15日敗戦が「速やかで素晴らしい判断」だったという神話は成立しない。

あるいは、支配者として天皇が、国体つまり支配者としての自分と、仲間たちの生存を優先したことを隠蔽することなしに成立しない。
いや、臣民の命を守るのは私たちだと抗弁するかもしれないが、東南アジアの島々の人々、沖縄の人々、全国で空襲に焼かれた人々、原爆に焼かれた人々にそれが言えるか?

はっきり言って、私にはそれだけの人々を失わせた天皇と政軍の関係者を許せる気持ちもないし、理屈もない。

天皇がいなくなって、ソ連と米軍が日本を奪い合ったらどうなってたかと言われても、だからと言って、朝鮮半島を戦地にし、分断させてはいけなかったと反問できる。

結局私たちのマインドは鬼畜米英と朝鮮蔑視のプロパガンダで未だに塗り固められていることになる。

せめて私たちを縛っているプロパガンダとかイデオロギーを認識しないで、私たちが解放される日はない。

私たちの過去が血塗られていることの認識なしに、この社会を良くしようという感覚、アジアの国々の人々を差別せずに平和を作るという感覚は生まれない。

過ぎたことの総括なしには。

あきらめずに感じ考えてやっと人のあたたかさが感じられつつある気もする

原発とか天皇制とか、難しい政治の話を書いてるように見えますよね。

違います、私の場合、あれは、私がぶつかってきた現実、リアリティ、心に感じたことを納得するまで、感じ考えてきて書いてるんです。

原発は中学生の時に考えたのが初めてです。
チェルノブイリに感じた怖さと、風の谷のナウシカについて感じた深い精神的な衝撃、もんじゅやJCOの時もモヤモヤしてました。
しかし深く突き詰められなかった。
311を迎え、時すでに遅し。
でも、とにかく考えるしかない。
環境が汚染され、それが数十年から数万、数億年に渡る。私たちが生み出してしまったものは、私たちで担いきれないという意味で、これは人類の限界です。

私たちは限界を知って生きねばならない。
でもそれは原爆や731、ホロコーストの時から提示されていた話だ。
また、戦争で危うく生き延びた祖父も、生きている中で、あの戦争が深い影になっていたのは感じていた。
社会派だからじゃなく、自分の深いところの話を、政治はめんどくさいから知らんみたいな処理はできない。
ここで、妥協できないから生きづらかった。

大学の時山本という政治学者に、民主主義について教わった。
山本先生は、歴史や思想に深い造詣があり、政治や社会の問題を必ず、人の生き方や歴史の中で生きている考え方や感じ方と関連させて考えていた。

私は自分がなぜいじめられてこんなに辛いかを考えていた。日本人の多数派のあり方が私を追い詰めていると感じていた。
戦争や原発の間違いを認めないで勝手な決まりを押しつけるありかた。民主主義がないから、一人一人の感じ方考え方がまず大事にされないからだと思った。

感じ方や考え方の問題をまずニーチェを読んで考えた。たった一人で感じ考えていくことの厳しさ、生きられないかもしれないという厳しさを感じながら大学を出て、詩を書いたりしてきた。
やがて、精神疾患発達障害のことを考え、私が独特であって、仕方ないしかまわないと考えるようになってきた。
それを愛し認めてくれた人に感謝している。いま、そしてこれから愛してくださる人を思う。

私はやはり突き詰めて考える。
イシカワはなんでこんないつもキリキリしているのだと。
しかし、私は今まで納得いくまで考え感じないと生き延びることができなかった。
その個性を肯定してくださる方、私の言葉から何かをひきだしてくださる方がいるのだと感じることがやっと感じることができるようになりつつある。

私は嫌われたり、嫌がられたりばかりが気になっていたが、私のあり方を肯定してくださる方がいること。それを感じるようになるまで40年以上かかった。
そのような信頼というもの、互いの違いを知ることにしかこの社会は一秒たりとも続かないってこと。

天皇が安倍総理よりマシというのは、倒錯ではないでしょうか。天皇の戦争責任は「深い反省」で済まされるものなのでしょうか。

 


終戦72年、追悼式に6200人 首相、加害責任触れず:朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASK8G3G93K8GUTFK005.html
天皇陛下が「おことば」を述べた。「深い反省」という表現を3年連続で使い、「戦争の惨禍が再び繰り返されない」こと」

このような記事を見て人々は、天皇はエラく安倍総理はダメだと思うのかもしれない。
果たしてそうか?
天皇の「戦争責任」は「深い反省」で済むのだろうか。
倒錯があるのではないか。

天皇と総理であれば、当時の地位として、天皇統治権全体を総覧する地位で、神格さえあった支配者で、総理はせいぜい行政長である。

現在は天皇は象徴と化しているが、太平洋戦争後、極東軍事裁判が下した判断は、天皇はそもそも訴追すらされていない。
アメリカ以外の中国やオーストラリアなどは天皇を戦犯として責任を問うという論調であったにもかかわらず。
他方戦時の総理東条英機は死刑である。
あまりにも不公平な処分である。
天皇が戦局をどのように把握していたかは様々議論があるものの、国家の最高責任者が無罪放免であったことの歪みのツケを私たちは今払っている。

安倍総理は、確かに論外だが、天皇明仁は「深い反省」と述べるにとどまっている。
天皇裕仁の戦争遂行責任、天皇明仁戦後責任は反省で済む話なのか。
一度も地位を下りるなどの責任らしい責任を取っていないわけだから、反省より必要なのは、天皇の責任を人々が議論する機会、場所であり、議論を経てくだされる天皇に対する具体的な処分なのではないか。
それは天皇が人気者であるかに関係なく、いやむしろ人気者で人格者と言われるからには通過しなければならないように思える。

天皇という存在が、私には日本の平和の象徴というより、「不透明な日本の平和の象徴」に思える。
そのような不透明さが、安倍総理の不可解な改憲姿勢やデタラメな閣議決定にもあらわれている。
天皇という存在が、私たちの民主主義や主権概念を不確かなものにしてはいないだろうか?
なぜなら、近代民主主義とは違い、天皇世襲制であり、世襲制により政治的地位を築いているからだ。
これは生まれによる差別を禁じた日本国憲法に矛盾しており、また、戦争指導者の子孫が天皇の地位につくことで、日本の平和主義を不透明なものにしている。
安倍総理A級戦犯容疑者の子孫であるのと同じようにそれは問題であるように思う。


少なくとも安倍総理より天皇明仁がマシという倒錯から私たちは抜け出すべきではないか。