細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【詩作品】平和はあるんかないんか

体があたたかい

何にもしたくない

何にも考えたくなく

考えたら垂れ流す

言葉を

うわ言を

垂れ流す

 

私が生きてないと

平和は始まらない

私が死んだりあなたが死んだりしたら

どうなるのかわからない

 

平和はそれを生きようとしないと

自分が平和でないとと思う

だけどだったら主観にしかすぎないとも

考える

 

あなたが確かめるこの腕も

 

あなたと関係ないこの話題も

 

あなたが考えてる晩御飯も

 

あなたが心配するこの世界の問題も

 

ぜんぶおなじ価値だ

 

おなじ価値の中で互いの話が通じない

 

通じなくて仕方ないやんか

通じた試しはないやんか

 

そやけど諦めずに

頭を使うんやで

私の固い頭を使うんやで

あなたの頭もそこにあるだろう

 

考えないようにはできないんやで

考えないようにしても襲ってくるんやで

私たちが犯したすべての間違いに向き合い

友だちになるしか

ないんやで

【詩作品】小せえなあ

生きているのが辛いと思うと

親不孝な気がしてくる

済まねえ申し訳ねえ

謝ったってしようがねえ


親が私を産んだのだけど

私は自分で自分の体と心を制御しなくちゃ

そう思うって

すでにいろいろ辛いからなんだろう

辛くなきゃ

勝手に笑うし

勝手に泣くしな

そんなものに理屈はねえな

そうなるはずだ


すでに理屈があるのは

なんだか辛いからだ

あなたに愛されたいと

願う時

私はどうしようもなく生きづらい私を

思う

たまには生きづらくなく

生きられるならと思う


果てしない寒空を

こわごわ見つめたり

限りなく流れる川を見て

小せえなあ

小せえなあと

思う


小せえなあ

私は小せえなあ

小せえから

まだ生きてられるんだ

何にも見えてないくらい

小さいから

生きてられるんだ

賢かったり

器用だったりしたら

うまくいきすぎて

たぶん

怖いものを見ると思う


だから

小せえ

小せえなあ


【詩作品】福島が頑張るとはなんだ

福島が頑張っているとか

日本が頑張っているとか

一体何が頑張るんだ

 

頑張るとはなんだ

頑張るとは具体的になんだ

福島に期待しているあなたが

福島に何を頑張らせているのか

冗談じゃない

誤魔化すんじゃない

 

私やあなたが生きているんだ

福島は、人間と自然が作り

人間が壊したんだ

私たちが壊したんだ

冗談じゃない

私たちが壊したんだ

壊した私たちは

もうどうしようもないんだ

 

どうしようもない私が

あなたを抱き寄せたい

抱き寄せることができないから

私はただ祈るだけだ

笑うときも泣くときも

あなたをどうすることができない

 

愛を知るとき

一番愛がわからない

愛という前に何もかもに

包まれて私は生きるのだ

 

私はあなたを包むもの

妨げるもの

すべての向こう側に

福島をみる

放射能をみる

朽ち果てた城や草はら

死んだ夢の中を彷徨う

私たちをみる

 

私たちが見たいもの

見えないもの

この世界を救うことは

この世界を丸裸にすること

 

何もかもが剥がされ

何もかもが

雨に晒される

 

原発をやめても

私たちの罪は終わらない

何万年経てば

私たちの心配は忘れられ

私たち自体がなきがごとしだ

 

だから私は

あなたを想う

思おうが思うまいが

みんなご機嫌で

みんな泣いている

 

世界の最後のひとりまで

幸せにならなくても

私やあなたが幸せになる権利はある

 

幸せだろうが不幸せだろうが

なんだって自由なんだ

だから踊り歌うしかない

 

なんだって自由なんだ

自由に痛めつけられ

自由に切なくなり

美しいのだ

 

あなたが

あなたというすべてが

【詩作品】橋から見えた天蓋に

川を渡らねばならない

何度も渡ってきた川だ

堤の上の大きな橋だ

大きいといっても隣町にかかる橋よりは小さい

堤防のすぐ下に

高校生の頃は

カラオケボックスが並んでいたけど

今は化学臭のする小さい工場がある

その工場の入り口は9時くらいまで

灯りがついて開いている

 

最近は体を動かすフィットネスとか

ヨガをする場所に通うために

その橋を渡る

 

橋から坂を下りて

数キロ行くとその場所がある

 

体を動かして

さっぱりした気持ちか

筋肉痛になりながら帰る

坂を登るのがきつい時と

楽な時があり

体調がわかる

暗い中を自転車とすれ違い

呼吸を強めながらカーブを

登っていく

案外長くて

スピードが緩む人もいる

私はしばらく鍛えていたら

あまり緩まなくなった

 

その坂の途中から

夏は1人で花火を見ていた

誰かに見せたいとは思ったが

それはまあよい

坂を登りきるまえに

暗闇が天蓋のように

広がる

 

広い広い空の下に

ポツリポツリと

煙突や倉庫が

無窮に憧れるように

立つ

 

私はこの街に住んできたんだ

となんとも言えない気持ちになる

何度か出て見たけど

結局帰ってきてしまった

暗い暗い空に

輝くあかりや星たちよ

 

それから坂を下ると

酒を買って帰ろうという気持ちになる

 

負けないぞ

勝てないけど

負けないぞ

そもそも

何と戦っている

 

赤信号が青に変わる

何かが同時に変わる

少しずつ

少しずつ

何かが

【詩作品】涙を流した

高まることも落ちることも

過ぎていった

涙を流した

 

深まろうとして膝をかがめ

底まで沈んでいこうとした

沈むことが深まることではなかった

涙を流した

 

だれにも会わないように決意したそのすぐ次の日に

会いに行った

惨めさが大きくなり

空がここまで迫ってきた

涙を流した

 

会うことができないので

なんでもない表情をしながら

血を流した

激しい感情は誰も助けず

時間をじりじりと削るだけであった

 

涙を流した

 

この生は病んでいる

涙を流した

涙ではあらわせないその人の表情があった

涙を流しても仕方ない

 

涙を流した

 

悲しみが感じられなかった

涙を流した

命を絶てずにただ生きていた

涙を流しても

ただ生きていても

涙が流れなくても

ただ生きていても

おお

ただ生きていても

 

この体に

まだ愛するがあるなら

この愛が涙のようだった

流しても流しても

涙以外の思いがさく裂し続けた

 

涙を流した

 

木々が枯れた

涙を流した

自分がうそつきだと思った

涙を流した

病院の帰りに泣き

怒りで涙を流して

よくなることがあると

よくなっても行くところがないと涙を流し

すべて傲然と

受け流しているふりをして

涙を流した

 

この体が心を取り戻したとき

息は深く

ヨガのポーズは不思議だった

そこで涙は流れず

喜びがあった

体が気持ちいいなら

心も気持ちいいに違いない

 

どうなろうと

あなたが幸せなら

いやありのままなら

私が幸せなら

ありのままなら

滅びゆくつかの間の

奇跡の時間であるなら

それでいい

 

ありのままの魂だけが

叫ぶこと

笑うこと

歌うこと

泣くこと

広がること

生きていることを

肯定できる

 

そこに何があろうと

それは肯定されているのだ

それが他人にどう思われようと

かかわりはない

 

涙を流している

涙を流している

 

「いきている」を生き直すために、ここ数年感じたことー続・私のtwitterアカウントに(いきている)と名づけている理由

私のtwitterアカウントに(いきている)と名づけている理由 - 細々と彫りつける http://ishikawakz.hatenablog.com/entry/2016/11/16/210631

この記事の続編です。

 

互いが互いの扱い方について、話し合い、わかりあうことが大事なのだ。
互いの本当の気持ちが出て来やすいようにすることが大切であり、本当の気持ちを礼節から真心から求め合うときにしかコミュニケーションは起きない。
その時互いは個体でありながら、つながりあったものとして現象する。

 

私は自閉症スペクトラムであり、不安や苛立ちは大きい、しかし本当のことしかいいたくない、飾ってしゃべることができないということも事実だ。
私は最短距離を求めるため逆に迂回路を歩むことになる。

 

愛というのは互いを所有しあわなくても、互いを信じるという確信であるが、私はいつも他人に頼り、楽しく過ごしてきたが、同時にどこか不安だった。
私は確かなものがないと。
それを自閉症スペクトラム診断が下りてからさらに強く考えるようになった。
私は精神の亀裂を直視しなければならなかった。

 

精神の亀裂を直視する度にそこに届く声を、態度に敏感になった。
私は他人を許すことは自分を許すこととつながっていると思うようになった。

むろん不寛容で頑固な私だからそれはなかなか難しい。


ただ、相手に、私は自分の今感じていることを正直に語りたいと思うようになった。

自分の亀裂に届かない言葉や気持ちにあまり長々と付き合うのはしんどくなったということもある。

 

理解する、されるということは時間がかかる。

 

今この時が楽しいということを大切にしようと。そうすればそうするほど、生きることは儚く切なく愛おしいと感じて、私の傷んで乾いた感覚が生きかえるようでもある。

 

私の傷や亀裂は年代物だ。
私の痛みが蘇り、私は苦悩しモヤモヤし、恥ずかしい気持ちになる。
しかしそうしてしか傷は治らない。
また歩けるようになったらいいな。

 

 

 

 

はじめから被ばく影響は「低線量においてない」と決めるのはまず非科学的であり、「ないから調査や対策をしなくてよい」のは論外であり、トートロジーに陥っている。それが放射能の議論を異常なものにしている。

私は放射能汚染の影響を評価する場合、こう考えます。
人工線源がある限り影響はゼロではないと考えて防護すること。影響があるなしの神学論争ではなく、汚染や影響の調査を適切に設計された調査をまずやること。

なぜなら、政府は影響がないから調査をしなくてよいと、調査をサボっているからです。

 

大切なのは、汚染や影響の「分布」「偏差」を明らかにして対策することです。
二元論ではなく、影響の強弱、汚染の濃淡はグラデーションになっているはずです。

北米、ヨーロッパ、オーストラリアなどで、医療線源や環境線源による非常に低線量の被ばく影響を統計的に検出することが可能になっています。

日本は原子力産業界と政府や学術界が距離を置けてないので、福島原発事故についてこのような統計的調査ができていません。

客観的な状況を調査しながら確かめることです。
科学というのは、絶対の答えを出すものではなく、複雑な現実のあり方を記述し、議論によってその解釈を行い、介入の方法を見出すことです。

 

はじめから「100mSv以下は影響はないから調べなくてよい」とする政府、一部学者の非科学的な言明で、「調査と対策」をされなくなるのはおかしいのです。

「ないからない」は証明とはいえません。

それに対して、きっとものすごい被害があるにちがいないという推測をぶつけても、調査データがないから議論が成立しないのです。なぜ調査と対策をしないのか、しなくてよいと決めつけているのかを問わなくてはなりません。

 

今の政府は
「低線量では影響はないに決まっている」
⬇︎
「影響がないから調査しなくてよい」
「影響がないから対策も予算もいらない」
「影響がないから賠償をなくしてよい、避難する必要もない」

私はこんなデタラメをまず、原発推進であろうが反原発であろうがやめさせるべきだと思いますよ。

 

これに「影響を心配するのは不安で病んでいるのだ」「正しい科学を知らない無知だ」「影響を心配する行為自体が風評被害だ」という世論や学術界一部からの攻撃が追加されています。

ここでも

「なぜ調査しないのか」

「事故以来、政府や電力会社はありのままに最大限放射能汚染について伝えてきていないのではないか」

という疑問が湧き上がるのは正当です。

何が何でも心配だという人もいますが、無理もないのです。まずしきい値がないのが、被ばくの特徴。

さらに公的機関が「ないからないのだ」という限り信頼できるデータがないため、なにがどうなってるかわからないので、全く考えないか、あらゆることを調べ疑い、被害を考え続けるかの二択を迫られます。

もちろん日常に放射能が降り注ぎ、それに対する政府や電力業界の補償が十分でないと思われ、明らかに責任者が適切な処罰を受け、電力会社が法的整理もされておらず、被ばく線量基準、環境汚染基準、廃棄物基準が事故後突然数倍から数十倍に緩和されたので、未だ混乱や不安をかかえる人が多いことを単なる無知や単なる個人的問題にできますまい。


これらは公共的に議論されるべき問題なのですが、世論が喚起されないまま、辛い事実を忘れたいという心理により風化にさらされています。

 

さらに日本経済のためには、オリンピックをせねばならない、そのためにはあるはずの汚染や影響をコントロールしたことにしなければならないという政府や経済界のキャンペーンが加わります。

こうなると原発事故がなんだったかの議論すら不可能になります。

韓国では大統領府に司直の手が及ぶ時代、電通労基法違反で強制捜査が入る時代に、東京電力経済産業省に捜査が一回も入っていないのは謎すぎます。

 

繰り返しますが
政府は
定時的なモニタリング以外には、放射能の影響調査はやってないです、原発事故では。
福島県で多発が確認されても、対策や追加の調査、人々の要望や対策に必要な予算をつけません。
はじめから平気だから平気だと決めているからです。

 

放射能防護のモデルは線形しきい値なしです。
影響がゼロになる地点はないのです。「他のリスクに隠れるほど小さい」として、「隠れたリスク」を無視してはいけません。
調査や対策をしないのに、思ったより影響が云々となぜ言えるのか本当にばかばかしいです。

 

繰り返しますが、調査をしないのに、なぜ影響の程度、範囲を決めれるのか。
安全危険の神学論争をされている方々は、政府が影響を否定している以前に「調査」の必要性を否定されていることに気づいていない。
これは原子力災害対策特措法など関連法規に反していると思います。

 

福島医大などは他方で「影響はない」と言いながら、ガンや病気の研究の予算がついている。しかし影響を心配して研究を始めようとしても予算はつかない。
これは不合理すぎる。
公衆衛生における予防が成り立ってない。

 

なかったことにする前にデータすら「存在させない」わけです。
戦争と福島原発事故に共通するのは、あったはずの歴史の誕生を未然に破壊して、未来を設計通り作るという恐るべきことです。
日本の平和が「安寧」ではなく「何事もない」に力点が置かれますから皆この恐ろしさに気づかない。

 

ちゃんと考えて欲しいのは、影響がバレるから以前に「影響があったかなかったか知る手段が奪われている」ことなのです。

 

非科学であり、現実の殺害です。
現実を殺された世界で、民主主義とか権利がありうるのか、左右両翼かかわらずよく考えてみてほしいです。
亡くなったジャンボードリヤールの見立てはこの点では間違ってないと思います。