加川良の訃報を聞いて「あの天国とやらへ」を聴いた
「あの魂たちの」慟哭が聴こえるようだ。
生きている時からこのような感覚を抱いていた加川良が天に召された。
「あの魂たち」と通天閣の下で歌ったある晴れの日の記録。
あの天国とやらへ - 加川良
https://www.youtube.com/watch?v=sEcHsk6U7Tc&sns=tw
加川がどんな気持ちでこれを作り歌ったかは私はその時代を生きていないからわからない。
私たちが天国とかあの世を想うのは、私たちが死から遠いからではないように、私は思う。
私は生きていくのが器用ではなく、いつもなんとなく生きているのが辛く、人の助けをうまく借りたりできず、ついついこらえながら生きている。
こらえながら生きていることすら、こらえ過ぎたら忘れてしまうもので、辛いのが当たり前さと乾いた笑いを浮かべて生きるしかなくなっている。
私はだから若い時は死にたいとかすごい思っていた。加川良の歌を聴いて思ったのはひとつにはそのような死との関係だ。天国にどのように上っていくのかそう考えると、そう考える生者の居場所というものがみえる。
私たちは見上げて想うしかない。
しかし今は死にたいとか思わないが生きる目標みたいのはない。
仕事も家族もない。
すると、何か死と生の間の空白に私がいるように思える。私は行く当てもない身と心を抱いて途方に暮れている。
途方に暮れて、生きるとか死ぬとかぼんやり考える、そのように考えても死には出会えない。
いつか親は死ぬ、親に甘えてばかりでもまずい。
友達の親が死んだ話や身の回りの年長者が死んだ話も時々聞くようになった。
そんな中で全然無力に包まれていた私もヨガをしたりしてカラダもずいぶんマシになってきた。
親が死ぬ前に私もしっかり自分の足で立てるようにしなきゃと。
とはいえ、この加川良の切々と、しかし粘り強く弾くギターの強かさ、強い泣き声、意思は何だろう。
お前も私も弱い人間で、天国があるとかないとか、そんなのはわからないけど、あなたが地に自分の足で立ち、見上げるとき、ただ、見上げて静かに泣くしかない、ひとつの、いくつもの別れがある。
死を思えと。
加川良の死を悼みます。