細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

一つの歌と一つの文章―恐るべきこの世界から肯定的な何かを救いだす

90年代後半から00年代前半、美しい歌声で駆け抜けた石嶺聡子
沖縄出身である。
彼女の名前と歌は少ししか知らなかったが、10年ぶりに昨年歌われたというこの歌は、この厳しい世界を生きる一つの手がかりになりえるかもしれないと思った。

歌唱力、歌声の美しさは折り紙付きであるとはいえ
なにかそれ以上の深い痛みからの立ち上がりを感じる。

「世界を信じている」とここで歌われているのは
単に無邪気な「信じる」ではない。
きずつきまた孤独に陥り何も確かなものがなくなったかのように
見える時にもかすかにそこを流れる世界の存在だが
世界は、私が存在してしまうこと、によっても成り立たざるを
得ないという原的なつながりである。
ニヒリズムや事実世界の破壊の中で
失われんとする最後のつながりである。

彼女は幾多の困難や活動の休止から立ち上がり震災、原発事故のあとに
来たる世界の崩壊に対してなおもありうる肯定のかたちを
示している気がしてならないのだ。


そして次は田房英子さんの以下の文章である。
これは市民と権力の関係にも当てはめることができる。
というか権力というのはこのような「関係を破壊してその認知構造を捻じ曲げて相手に文句を言わせないようにしてその現実を自他ともに信じさせてしまうような」構造なのかもしれない。

親や祖父母という、子どもにとって圧倒的な強者の存在になるというのは、弱者である子供を好き放題できるという、恐ろしすぎるおぞましすぎる権利も手に入れてしまうってことなんですよね! 『下の子に嫉妬して、いつも意地悪をする上の子』なんていう、事実とは全く違うねじ曲がった設定で子供の「性格」を自分の都合のよいように作り上げることもできちゃうんですよ! そうなったかもしれない原因(自分の行い)はまるでなかったことにもできてしまうし。しかもそれを本人にそのまま伝えても、「バカ」と言われるくらいで、こっちは済んじゃうんですよね。
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/09/08/entry_005322.html

歴史修正主義から、生活保護叩き、原発事故被害者への権力側からの口封じというものまで想起できる。
しかしそれらに通底するものはこの世界を形成している関係性のありかたそのものかもしれないのだ。それが「こちらでストーリーを作りまかり通らせること」によって弱者をコントロールし、自分を免罪しようとしてしまう不幸な欲望であるのかと悟らせてくれる。
このマインドセットは強力であり、これに抵抗するのは容易ではない。
これらはしばしば「親心」とか「善意」の仮面をつけているからだし、
何よりも本人がそう信じてしまっている可能性がある。
しかし結果は大惨事が起きる。

そうならないように、しかし答えは用意されている。
以下。

でも、子供からしたら、圧倒的に対抗できない存在、しかも本来は自分を守るべき存在から、そんな理不尽な扱いを受けるというのは、相当なダメージなんですよね?! しかも「バカ」と言われることは「やっぱりこの子はこんなに悪い子だわ」って、強者は安心して自分に都合のよい設定をゴリ押しできるから、実は強者にとってはいいことなんですよね。弱者側も、時間がたつと自分の状況をそれと信じ込んでいったり、このババアには何言ってもダメだって気づいて、『やだ』とハッキリ意思表示してくれなくなるんですよね。そうなっていくと、もうその家庭内では、親や祖父母にとって都合の良い「設定」が「現実」になっていっちゃうんですよね。『やだ』と意思表示してくれるって、本当はとっても有難いことなんですよね! 
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/09/08/entry_005322.html

この呪術的な破壊に逆らうには
「やだ」という意思表示しかない。

そしてこの「やだ」の底には
石嶺さんが歌った「この世界を信じている/信じていく」
という肯定しようとする力があるのだと思う。

原発災害と戦争を回避するには「肯定に裏付けられた否定」を
強く強く再認識する必要がある。

それは罪や痛みを背負っても
生きられるし、生きるということでもある。

それは日本の戦後体制の欺瞞から、軍事的に、あるいは環境破壊的にではなく
脱出し社会正義を実現するただ一つのかすかな方向に思える。

「やだ」が否定するのは不本意で筋が通らないものだ。
それは認識と現実が一体になってすべてをからめとる諸力である。

そして否定するのは
この世界の諸力を解放するためであり
解放が先であり肯定がより深く作用した否定である。

沖縄が圧政の歴史から解放されたいと望むように
人々が被ばくから傷つけられた命を見つめなおすために
何よりも深い肯定から発せられた異議申し立てが必要なのだ。