細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

瓦礫を焼かれて気づいたこと−放射能公害防止と平和利用のレトリックについて

 原発震災の後、一昨年の初冬あたりから、震災瓦礫の広域処理反対をいいだしてから、1年と3か月ほどたつのだろうか。結局大阪市瓦礫を受け入れ、2月1日から焼却を始めてしまっている。
 ここ何日かはショックで、七転八倒していたわけだが、少し頭がふつうになってきたので、何か書いてみる。とはいえどう考えてもつらいわけである。

 大阪の市長は橋下市長だ。彼はある時は脱原発を気取っていたわけだが、昨年の夏前に方針を転換し、今や石原慎太郎とタッグを組み、安倍総理にも真っ先にあってもらえる押しも押されぬ保守政治家の若手になった。
 とはいえ、私は府知事になって、児童文学館を秘書に隠し撮りさせていたその日に、この人間は危険人物だと思っていたから、橋下が脱原発を言っていた時も冷めた気持ちでいた。私は実際橋下が所属している関西広域連合に行政交渉に行ったときに、関西広域連合関西電力が子供向けに節電を呼びかけるキャンペーンをやっていると知って、ああそういうことかと得心した。
 その時以来、嘉田や山田といった知事もなんちゃってであろうと思っていたので、嘉田を支持することもなかった。関西広域連合はそういう組織なのである。

 ガレキについても、一昨年のダブル選挙で、ガレキ受入れに慎重で組合方面にも支持があった平松を橋下が蹴落とした時点で、ガレキ反対の人々は、橋下を大阪市に入れてしまったと危機感を抱いていたのだった。
 大方の予想通り、橋下は公務員組合をメディアと民衆を巻き込んで攻撃し、環境局や交通局を落城させていった。瓦礫を受け入れさせ、再稼働を容認させ(環境局にはエネルギー政策担当もある)、各部局を民営化し、誰が得するかといえば、それは関西の私鉄や関電や財界なのだった。

 ガレキを埋め立てる夢洲は人工島であり、瓦礫を埋め立てたすぐ横に大企業が立てたメガソーラーが立ち並び、そのそばにはカジノが立つ予定である。

 何をかいわんや、環境局も認めるかねてからのゴミ埋め立ての複合(重金属・化学)汚染物質で使えない夢洲を、金のなる木にしようとする財界と橋下の策動の一環に瓦礫があったのだった。瓦礫補助金が必ず出る。そして、2000㏃まで緩和した基準でもってそこに低レベル放射性廃棄物を受け入れれば、関電さんや四電さんがいつでも廃材を持ち込めるのであった。
 被災地で産廃を扱っている企業とねんごろな産廃業者が瓦礫を運搬しているのだから、もう言葉もない。「夢洲」というのはトンだものだ。此花区はスポーツ施設やオリンピック誘致や湾岸開発を、公害の代償にあてがわれてきたのだが、此花区のメガソーラーの収益を区民の瓦礫受入れの痛みに補てんすると橋下が行った時のダメな政治家ぶりと言ったらなかった。それくらいまでしてやっていたのである。みんな知るべきである。

 私はこうして橋下市長や瓦礫問題を激しく論難してきたわけだが、その警告もあまりうまく伝えられたとは言えない。
 単に悪口や避難に見えたかもしれないが私は原発事故の後の始末の仕方について考えたらどの角度から見ても広域処理を考え方として許してはならないと思えたからだ。


 どんなに低いレベルの汚染物でも、それを広域に移動することを容認してはならないのだと。また焼却を許してはならない。もしその場所で焼却するなら現代文明最高の技術を使うべきである。
 逃げたくても次の仕事に不安を持つ人に手当てをして避難させ、残る人は放射線への備えを持たせてあげないといけない。

 こういう理由は何か。当然それを許してしまえば、事故を起こしてもきっちりした対応をとらなくていいという実績を作られることになる。ちょっとくらいならいいというなら、ちょっとくらいなら体罰していい、とかちょっとくらいなら水銀を川に流していいということになるだろうか。ならない。まったくならない。

 今日読んだ記事がすごく説得的だったので掲げる。
 その前に予備知識を。低いレベルの放射性廃棄物を一般焼却できる根拠法となっているのが放射能汚染対処特措法です。

独立の総合的な放射能汚染防止法(仮称)が必要です。既存の個別法を適用するだけでは汚染を防止できません。何万年もの間安全隔離の必要な高レベル核廃棄物、膨大な量の低レベル核廃棄物、廃炉に伴う長期の汚染防止、福島事故による汚染拡散の防止など、放射性物質という「公害物質の特徴」に応じた総合的体系的な法整備は不可欠です。特に注意を要するのは、環境省のなし崩し的な法改正を放置してしまうことです。「悪い法律ができてから後追い批判をする」という方向に流れがちです。現在立法作業が進行していることを念頭に活動していきましょう。

4 原子炉等規制法や放射線障害防止法は公害防止法とは違うのか。

  全く違います。 公害防止法の柱は二つです。 ①汚染するな。 ②汚染した者は罰する。この二つです。公害防止法はこの2本柱からなっています。汚染防止と責任という概念を覚えておきましょう。原子力関連の法律にはこの二本の柱が抜け落ちているのです。原子炉等規制法も放射線障害防止法も、放射線放射性物質を扱う者に対して放射線レベルに応じて「管理区域」や「周辺監視区域」を設け立ち入りなどを制限しなさい。といっているだけです。これを超えてばらまくことを禁止する規定もなく、従ってばらまいた場合の罰則もありません。別な表現をすれば、放射線を取り扱う者に対する「取り扱いマニュアル」に過ぎないのです。一般公衆は、事業者の放射線管理の問題だから、なにも文句を言わずに有り難くだまっていなさい、という構造です。
http://blog.goo.ne.jp/zzyukio8989/e/885c9fefbf7fd229dd1778029176439d

 「公害防止法の柱は二つです。 ①汚染するな。 ②汚染した者は罰する。この二つです。公害防止法はこの2本柱からなっています。汚染防止と責任という概念を覚えておきましょう。原子力関連の法律にはこの二本の柱が抜け落ちているのです。」この文章を読んだとき私の中で、自分の予感は間違っていなかったのだと思いました。
 頭の中がピーンとなりました。

 原発の特徴は、放射能を蓄蔵し、放射能を生産してしまうということです。自然や人為的過失、犯罪によって施設が損壊されれば、不可逆的に放射能を拡散するリスクがあります。拡散されればその生成物は、大地を水を大気を長い間汚染し続けます。汚染とは生命を傷つけるという意味です。

 脱原発派はせいぜい廃炉を主張しているだけの人が多く、「膨大な量の低レベル核廃棄物、廃炉に伴う長期の汚染防止、福島事故による汚染拡散の防止」という憂鬱な公害の後始末と管理は、たいして考えてない人が多くて困っているのです。
 それどころか「汚染何するものぞ」という勇ましい人も多かったりします。
 ガレキなんて放射能ちょっとだから大丈夫という人まで。ちがうのです。
 国の考え方は東電放射能の拡散の責任を問わないということと一連です。彼らが意味もなく規制を緩和して瓦礫をあちこちで処理させるわけがありません。だって今まで放射能を含んだものを自治体の一般廃棄物施設は処理できなかったんだから。汚染されていない地域でわざわざその慣例を壊す必要がありません。
 まして橋下のような人物が、善意で瓦礫を処理するわけがありません。
 
 環境省や規制委員会が、泥縄式に汚染管理の方法を緩和したり杜撰にしていることをまるで理解できない人がいっぱいいます。環境省や規制委員会は脱原発派ではありません。脱原発派ではない国家官僚や専門家が汚染物質の取り扱いを決めているのです。こういう人々はプロの実務家ですから、いくらでもデータを改ざんし隠ぺいし見た目難解なトンデモ法律をいくらでもつくれます。

環境省の検討会がいかに常軌を逸したものであるかは、東京新聞2012年4月5日号のこちら特報部の右半分にある鷹取敦氏のインタビューに赤裸々に語られている。私は永年この分野に関わってきたが、これほどずさんで透明性のない検討会は見たことがない。http://eritokyo.jp/independent/aoyama-democ0013...html


 犯罪者やその友達が汚染物質大丈夫と言っているのです。

 そういう構造の一端からガレキ広域処理の根拠法である汚染対処特措法ができたのを知って下さい。

 でないと原子力や国家の責任を追及しながら脱原発を成し遂げるというウルトラCは不可能です。

 

 汚染拡散を防止しなければ避難は成り立たないので、避難の重要性を理解する人は放射能防御の観点からの原則的な広域処理反対に共鳴してくれます。
 
 ガレキ反対は地味なように見えますが、今後数十年、数百年続く廃炉を国家や企業の責任とコストで成し遂げるか、それとも、国民や未来の人類の肉体的社会的負担によって成し遂げられるかということのために戦っているのです。

 私自身はそういう気持ちでいます。

これまで「脱原発」を求めてきました。これからも求めていきます。しかし、脱原発で安心できる段階はもはや過去のことなのです。事故による汚染はもちろん、生み出された負の遺産である核廃棄が環境を汚染しないように管理する体制を作らなければならないhttp://blog.goo.ne.jp/zzyukio8989/e/885c9fefbf7fd229dd1778029176439d


 むろんじぶんが汚染から逃れたいという気持ちがないわけではありません。
 大ありです。
 なぜかというと、放射能は生命の基礎を傷つけるからです。生命の基礎や基盤は細胞であり遺伝子です。遺伝子障害や胎児障害をいうことは差別だという人がいますがそれは間違いです。
 分子生物学や細胞生物学では、大和田幸嗣先生http://d.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20121110/1352522837にもお伺いしたように、放射線が変異をもたらすのは事実です。植物でも動物でも人間でも同じです。変異は絶えずおこります。さらに、地球の物質ではなく、普段から生成し事故で放出された核分裂生成物は様々な改変パターンをもつフレッシュな核種です。そういうものを人体の中に入れてはなりません。もちろんちょっとなら今すぐにはわかりません。しかし生物は世代間の連鎖の中にいます。つまり自分が傷つくことは他人を傷つけることにつながる。
 放射線の効果を考えるならそこまで考えて、慎重な議論をしなければなりません。
 生命は複雑な調和と制御のシステムを持っています。それを化学物質や放射能が侵すことはレイチェルカーソンがとっくに指摘しています。

 さらに、ここはうまく整理できていませんが、生命をまず尊重しようということからいえば、原子力は正当化できるエネルギーとはいえなくなります。

11 脱原発放射能汚染防止法

   原子力公害に取り組むためのもっとも重要なキーワードは「汚染防止」です。日本には54基の原発とそれが生み出した膨大な放射性物質があります。直ちに原発を止めても、そこには膨大な量の核廃棄物があります。我々はこれまで「脱原発」を求めてきました。これからも求めていきます。しかし、脱原発で安心できる段階はもはや過去のことなのです。事故による汚染はもちろん、生み出された負の遺産である核廃棄が環境を汚染しないように管理する体制を作らなければならないのです。放射能による汚染から環境を守る」という視点から「汚染なき脱原発」を実現する必要があります。また、「汚染」という視点で現実を直視すると「今すぐやめても大変なのに原発運転を続けるのはとんでもないことだ」ということがよくわかります。さらに原子力公害は地球規模の危機です。世界の原発は400基を超え今後増えていく方向にあります。放射性廃棄物は増え続けています。老朽化も進んでいます。今後世界のどこかで次々と事故が起こる可能性があります。事故の汚染に合わせて規制をゆるめ、「影響はない」と扱われてしまうことが予想されます。この状況が今後100年も続いたらどうなるのか。日本の輸出が将来の地球環境にもたらすもの、以上のように「汚染防止」という視点で現実をとらえることが必要です。脱原発を確実に実現するためにも、汚染防止という法律制定に向けて運動する必要があります。
http://blog.goo.ne.jp/zzyukio8989/e/885c9fefbf7fd229dd1778029176439d

 汚染防止には強い規範的意味を持たせる必要があります。
 僕は気弱な、自分カワイイの理由で瓦礫に反対していますが、その自己防御の強い感情には、現実的な根拠があるのではないかと予感しています。
 それは汚染をするたびに「大丈夫」といわれたら倫理も法律もあったものではないということです。

 で、これは人類や地球生命の福祉にも反することです。
 だから原子力基本法1条は間違っています。

第一条  この法律は、原子力の研究、開発及び利用(以下「原子力利用」という。)を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。
(基本方針)
第二条  原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。

 原子力村の倫理崩壊やルール破りによる他人の生活の破壊は人類自体の存亡を危機にされしていると思います。そういうものを「推進することによって」「学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与する」なんてことはありません。原子力基本法には経済だけではない、福祉という言葉があります。
 しかし避難民を救わない、生業を奪われた人、今生きる人や未来の人の選択権の喪失を救わない原子力や国家に何の「平和」や「福祉」があるのだろうか。

 そしてこの平和利用の根底には日本が、潜在的核保有能力を持たないと米国の核の傘では足りないという国家的規模の不安が横たわっているのです。これから私たちはそれと取組み、不安ではなく信頼で組織される近隣諸国との関係を築くべきです。

 固くなったけど最近考えていることでした。