細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【読了】山岸俊男・メアリー.C.ブリントン『リスクに背を向ける日本人』

リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)

リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)

読了した。
山岸氏とブリントン氏の対談である。

昨日電車で読んで、カフェで読んだら読み終わった。
山岸氏は社会心理学者だが独創的な人で人気がある。日本社会を安心社会から信頼社会へのシフトとしてとらえている。一方ブリントン氏は、シカゴ大学などを歴任して日本の高校生の就労の研究の著書もある社会学者である。ハーバードの社会学部長とライシャワー研究所の長も務めている。いわゆる知日派親日派といえばよいか。

ふたりは旧来の友人らしく、ブリントン氏は自己主張の激しいアメリカより日本に研究に来たとき「ふるさと」のように落ち着いていたが、しばらくいるうちに、何事も遠回しな日本のコミュニケーション慣行にも欠点があるのではないかと気づく。そういう来歴が語られる。
いっぽう山岸氏は日本社会に収まりきらないなかなかの個性の持ち主で、アメリカの研究環境で自己開花させ、日本に帰ってきて教授会でみながネクタイを締める中タンクトップをきたというエピソードが語られる。

山岸氏の対談後の加筆が多く、少し山岸氏の主張が押し気味になっている。
ブリントン氏はアメリカ人の再チャレンジ(首になってもまた次を探す)への向日性をだいぶ評価していて、それは再チャレンジが良くも悪くもふつうのことになっているからだと説く。また日本のように年齢や家庭環境のようなプライベートで採用を切られることは法的に許されない。人に気軽に職を紹介できてあとくされがない。しかしその一方政府の社会保障は手薄だという。(日本はその点社会保険制度が整備されていると述べる)
山岸氏はそれを受けて、日本の社会は集団主義的な秩序しかなく、まわりをみて判断するという習慣がついているため、なかなか動きだせない。しかしこれは女性への差別やいったん社会のルートから外れると再雇用が少ないという根本的な事情があり、つまり再チャレンジへのリスクが高い。それは社会制度や法の支配の欠陥でもある。結果個々人は波風立てず今の場所を守るという消極的なソリューションや対処法が身に付くと説く。(これはひきこもりやいじめにおいても共通する現象だという)

このリスクに対してブリントン氏は日本人とのつきあいの経験から、心を込めて日本人はリスクを恐れない方が前に進めるという。しかし山岸氏は全員が明るく前向きにはなれないし、ハードルがおおいのが事実だから意識改革も必要だが、個々人がチャレンジしてもいいと思える社会環境に転換していくのが大事だと反論する。


おおむねこういう流れなのだが、ブリントン氏は中国から身寄りのない子供を養子として引き受け育てている経験を話している。自分に親密な人がいることは大事であり、年齢を重ねてある程度所得のある人が子供を養子にとるということもあるのだという。

またブリントン氏は、進学校ではない日本の高校生の新卒就職がむずかしくなったことと関連して述べていることが面白かった。
つまり、10年以上続く不況とグローバリゼーションによって、新卒採用は難しくなった。その影響は工業や商業という専科ではない普通科の高校生の就職を難しくしている。かつては日本の業界は護送船団方式であり、高校の教師とも太いパイプをもっていた。だから高校の教師もいわば就職の世話人として、ちゃんと就職できるようにするために良い成績をとりなさい、ちゃんと勉強しなさいということができた。

しかし新卒の普通科高校生の採用が厳しくなった今では、子供たちに勉強しなさいといっても、「勉強するインセンティブ」がないのだという。これはよくわかる話である。

おそらくこのインセンティブについての問題が本書の軸であろう。そこで問題になる社会参加する際の(心理的-社会的つまりは制度的)ハードルの高さについて、二人の見立ては基本近くてもやはり若干ちがっていて、処方もわかれる。ただグローバル化に適応せよということは二人は共通しているなと思った。(良し悪しは別にしてそれが所与の現実といいたいのではないだろうか)ただその向ける先にちがいがある。

興味深いのは山岸氏が日本人は個々の意識改革だけでは負担が大きすぎると述べる点だ。だから人の目を気にしないで、己の生活を中心にしてもいい社会慣行や集団のあり方の構築が大事だという。(ただ解雇規制についてはラディカルな撤廃派といえる。これが吉と出るか不安であるが)彼自身日本で苦労しただろう経験が生きている洞察である。
しかしブリントン氏は意志でトライして変えられると譲らない。この二つの見解は相互補完的なものなのだろう。しかし難しい意見の相違のようにも感じられる。

ふくざつなのは、山岸氏が「日本人は集団主義秩序がいいとは思っていないが、とりあえず他の人の出方がわからないので、一番無難な世間的とされる選択にしたがっている」趣旨の発言をしている点だ。山岸氏はこのような集団主義秩序自体が幻影であるとも感じている。
日本人論特有の罠に陥っている気もする。しかし社会心理学的な実験によって現在の日本人は集団主義的ではなく、それ以外の選択が提示されていないうえ、逸脱による排除が怖いので、集団に従っているだけであるという点は注目に値する。思うより個人主義であると。
ここにはある意味でのオフィシャルな意味での共通善やルールによる支配が欠如している日本の社会の特徴をあぶりだしている。
つまり個々の政治的自由の行使が「自粛」されている。そのことによって公的な秩序が形成されない。その結果「空気」が支配されるということである。恣意的な気分や勢いに突き動かされる支配体制の姿がみえてくる。山本七平の名前もちらほら見える。


このように過去から引き継がれただろう日本人の当面している課題のむずかしさは大きい。まずそこを測定して即時的な対応と中長期的な対応を分けて議論する必要があるのかもしれない。社会は急に変わらないが、できうる努力はあるだろうから。その時の集団のアレンジメント、個々人の位置が問題になるだろう。
しかしこういう問題意識がおおっぴらに語られ、それが単なる日本人論的な批判だけでなく意思決定の制度を作り上げることが課題なのではないか。
(この点で丸山真男加藤周一の限界を乗り越えること)

ブリントン氏の本に少し興味がわいてきた。
さっき紹介した高校生の就労の話はこれの模様

失われた場を探して──ロストジェネレーションの社会学

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