細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ご機嫌いかが・・・

 日々病気ってものの、意味合いが変わっていってて、一日たりとも「これが病気だ」というようなものを捉まえきった気はしない。それは病気自体も生命の流動的な変化に呼応しているからだろうと思う。

 ある意味では治ってしまってしかしその治ったということが、以前とどちがうのかよくわからない。恐ろしく無力でほとんどイカレテイルと思うしやはり現状ある程度イカレテイルのかもしれない。まあそういうことは置いておこう。それくらいはっきりしない事柄であり、だからその対応に人類は迷い続けてきたのかもしれない。きわめて現実的にいえば、どれくらい治ったか問題は社会保障の議論とも関わる。しかしどれだけ活動が低水準であってもそれほど気分が悪い日ばかりではないということは意義あることだ。

 生命自体が病気だというつもりもないし、病気というものにある価値的な重みを付与しすぎるとよくないと思うのだ。が、あるしんどい状態にであうことで自分の生命というものが歪でありあまりにも固まったものであり、もっと生命をマシな、よい姿に変えていきたいと思ったのかもしれない。

 その意味で身体のあらゆる状態は、それぞれのメッセージを持っている。頭痛には頭痛の、腹痛には腹痛の、歯痛には歯痛の持つメッセージがあるのだと思う。

 そういうと詩的なのだが、しかし実は極めてベーシックな意味で痛みという様々な身体的兆候の局所的にあらわれる感覚は散文的なようでいて、象徴的な意味を持つのではないかと思ったりする。

 象徴とは説明とは異なるが、ある事態をこれ以上なくはっきり示す作用を持つように思うのである。とはいえそれを過度に神秘化しても過度に自然科学的に解しても楽しくなかろう。神秘に行ったり、医者に行ったりしながらも、あるマシな状態を目指す。
 昔、アランが「ご機嫌いかが」と問われて「本当の答えは気分はいつも悪いものなのだ」といっていた。ここには幾分か知恵の響きがある。つまり社交辞令と思われる「元気?」「元気だよ」には、そういう真実であるとか、偽であるとかということ以外に、実際に取り交わされることで、人と人との何かを確かめるようなものがあるのだ。
 しかしそれはあまりにも当たり前のことなので、形骸化しているように思われるだけであって強烈な何かなのである。アランはそれをいいたかったのかなあとか。幸福論をずっと読んでいないのできちんと覚えてないのだが。

 それは「ご機嫌いかが」以外にも様々な場所や状況に存在していて、この世界を即物的にも詩的にもしているのだ。
 犬の鳴き声や、草花の揺れとかだけでなく、あまりにも当たり前になっているがために受けとっていることを忘れてしまっている何か。

 そういうものが恐らく大事なのだが、どうにもうまく気づくことができないでいる。柱のなんでもない傷とか妙に光って見える窓ガラス、息切れする時の階段など。また自分の膝小僧をじっとみているとにやけてしまうような懐かしい匂いがしたことなど。
 よくよく思ってみるならば恐ろしく様々な風景や状況を経験したはずなのにそれならば経験に即してうまくやり過ごせるはずなのに今ここで私はあまり力を持たない。
 そう今というものは、そうして絶えず表われてきている。なのに目を見張るような感触を失っている。しかしそれは多くの場合初めてであり、言語の運用によって、その「初めて」の恐ろしさ・まばゆさ・カタストロフィーから自分を守っている。言語は現在生を受けいれやすいものに変換するので、同時におそろしいまでのまばゆさも適度に消される。
 過去とか未来という時制もそうで意識体験が時制の適切なしなやかさと安全性を持たない時、人はそれを恐怖や、得体の知れないものとして経験する。
 そんなふうにも考えてみたがどうなんだろうかね。