細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

CM冬物語より・詩の勉強

深津絵里が「女の子ものがたり」に主演するので、なんかいろいろ検索したらyoutubeからこんな映像が。。その続きのこれ。

田辺誠一もふかっちゃんも少し若くていいなあ。

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今日は詩のお勉強をしていた。中野重治「素樸といふこと」と吉本隆明「芸術的抵抗とその挫折」、高見順のいくつかの詩、鶴見俊輔「戦時期日本の精神史」の中の「鎖国」を読んでいた。散文の原案を考えるがうまく焦点が結ばない。


            *西郷・開国


最近内村鑑三の「代表的日本人」の西郷の章を読んで、内村は鎖国からの開国を基本的にそんなにわるくないこととして表現していた。西郷は開国によって日本がより大きく可能性をもった国家になることを予想していた。統一国家化は、海外に対しても国内に対しても意義のあるものだし、西郷のその見通しとペリーらの西洋国家の要求は合致していたと内村は見ていた。
また鎖国を壊すことで、西郷はその内なる「サムライ」精神をも犠牲にせねばならぬことを述べている。このサムライ的な戦闘精神と、日本という統一国家がアジアを制覇して、西洋国家に対する帝国になること、この両者が西郷の中で「征韓論」として圧縮された発想となる。
西郷の発想のうち20年以内にひとつは日韓併合として実現されてしまう。しかし西郷が殺さざるを得なかった開かれた「サムライ」主義というものは行き場を失くして死滅するか歪んだ軍人官僚主義に堕していったのだろう。

三島は天皇にお仕えする「サムライ」という持論を展開したのだろうが、恐らく、西郷やそれ以前の様々なサムライがもっていたのは、天皇に対する忠誠とはちがうものだろうと思う。国内的な平定より、先を西郷が見ていたとすれば、そしてそれを「天」と名指していたとすれば、それは「天皇」の「天」ではなく、宇宙や世界を仰ぎ見る自分という意味で「宇宙」の意味を持っていたのかもしれない。少なくとも内村鑑三の記述はそれをキリストの「天」を用いながらすこし抉り出せているように思えた。

         *以下メモ風に


詩は西洋でもそうであるように、「国語」あるいは「国家」の発生とともに自覚的に語られるようになったと思われる。アメリカのホイットマンソローが、市民的な精神と詩的な抒情が一体化しているように。

ソクラテスの登場するプラトンの作品が文学・演劇・詩歌・音楽様々な要素を持った頃とは違い、国民国家とその中での国語の発見・生成の連関、ロマン主義、民族精神の発生。

開国によって、今まで風土の中にあったものが、意識化されエクリチュールとなる。それがたとえば近代文学であるとする。しかしそれはかつてあったものとはちがっている。日本民俗学とハイネ。難しい。

国家の誕生。記紀神話と天皇制国家の誕生。国土の発見。風土という考え方。鎖国

「素朴」「ありのまま」「自然」という言葉、それが国家の内在的な国民の精神として措定される。しかし自然な在りようというよりやはりそれは意識と生活の結合ではないのか。

「素朴さ」「ありのまま」とは、ものを捉える目に曇りがないことではない。見えたものを見えたまま述べることである。しかし述べるというのは言葉によってである。言葉も、「素朴」であろうとすれば、錯覚は錯覚のまま、盲目は盲目のまま獲得された世界をあらわすことが重要だ。「目覚め」は重要ではない。さしあたりは。
「ある」ということ。僕がここにいて、そこにいないということ、そこにいて、ここにいたらないということ、様々な場所をゆめみることができるということ。
「あるべき」や「あれ」ではなく、そこにいることへの「驚き」あるいはそこにぼんやりと存在している、その動的な水準を感じること。それが「ありのまま」である。けして「ありのまま」は知性や思考と別次元に存在するのではない。「ありのまま」にあるということは、非常に困難だが可能である、そのまま、今あるあり方を感じることだ。そこからしか変化や変革はない。

自分たちが生活する意識を記述する言葉を別様にもつことは可能なのか。近代文学・詩歌を参考にちがう方向へと抜け出ること?